アブー・コウジおじちゃん
駐イラク大使 岩井 文男
1 治安状況の変遷に見るイラク
イラク着任から約2年半が経ちました。当地での勤務は今回が3度目。前回は2007年4月から翌年の9月まででしたから、それから10年弱が過ぎた計算です。前回の勤務では、大使館の所在するいわゆる「グリーンゾーン」への迫撃砲やロケット砲による攻撃を経験しました。街中でも自動車爆弾等によるテロが頻発、幸い私も含め大使館員が巻き込まれ被害に遭うことはありませんでしたが、爆発音を耳にするのは日常茶飯事でした。今回の勤務はすでに前回よりも約1年長くなっているのですが、その間上述のような事案を直接体験したことはまだありません。その意味では首都バグダッドの治安状況は顕著な改善を見ているというのが私の肌感覚です。
「あなたは明日生きていると思うか。」前回の勤務時、そして今回、この質問を何度イラクの人たちに投げかけたでしょう。回答の趨勢は明らかに肯定的な方向へ変化してきています。その代わり、日々の生活に対する不満、為政者に対する深い失望さらには侮蔑をひっきりなしに耳にするようになりました。彼らが直面している切実な問題は、供給が質と量の両面で不十分な電気や水、医療や教育分野での劣悪なサービス、若年者、特に大卒者の間での高い失業率等に象徴されています。
2003年以降の新生イラクは、略奪と混乱、血みどろの宗派間抗争、テロとの闘いといった困難に見舞われてきたことを考えると、15年を経て人びとはようやく生死の不安から脱し、生活苦を語る余裕が出てきたと言えるのかもしれません。
2 バーチャルに市井の声を聞く
こうした人びとの声はSNSを通して私のもとに届きます。治安が改善してきているとはいえ、お国の人たちとの自由気ままな交流は他の任国のようにはいきません。そこで私は、SNSの双方向性に着目し、着任後半年ほどしてから大使館のFacebook (FB)に力を入れることにしました。おかげさまで、2016年6月に8,677人だったフォロワー数は本年5月17日現在で110,673人にまで増えました。当館は日本の中東地域所在公館の中で唯一、フォロワーが6桁台の公館となっています。また、私個人のFBも63,000人を越える人たちがフォローして下さっています。
アラブ社会では親しい知人を呼称するときに、その知人の長男ないし長女の名前をアブー(父の意味)の後にくっつけて、「アブー誰某」すなわち誰某のお父さんと呼び習わす伝統があります。おかげさまで私は、イラクの皆さんから「アブー・コウジおじちゃん」と親しみをもって呼ばれるようになりました。 また、日本大使へのイラク国籍付与に係る請願運動や勝手連による立候補推挙運動などまことに珍妙な動きまで見聞きするようになっています。
イラクの人たちが祖国の現状をどう思い、日本にどのような感情を抱いているのか。11万と6万で延べ17万人の人たちから日々寄せられる声を分析し、「アラブの春」の轍を踏まないようにすること。それがアラビア語を国費で勉強させてもらった地域専門家の務めと心得ながら仕事をしているところです。
3 高まる政治不信、深まる失望
イラクの人たちは、新生イラクで政を生業としてきた人たち(為政者)に極めて強い不信感と失望の念を抱いています。私が政治家との面談をFBに投稿でもしようものなら、読者からは大抵、「大使、後生だからイラクの富を盗むだけのこんな輩と話をするのは止めて。時間の無駄」といった否定的なコメントばかりが寄せられます。この政治不信は5月12日に実施された国会議員選挙で噴き出しました。選管から正式発表された投票率は44.5%と、イラクの選挙史上最低でした。そして、最大得票数を獲得したのは「サーイルーン」というポピュリスト的政治グループでした。さらに今回の選挙では、国会議長、副議長はじめ閣僚複数、名だたる議員が落選の憂き目に遭うことになりました。
お国の人たちの間でこのような政治不信が蔓延しているのはなぜか。究極のところそれは、新生イラクを統べてきた為政者は大半が元亡命者であって、そもそも生活の基盤をイラク国内に有していないという事実に帰着するように私には思えます。
マアスーム大統領が大統領職就任に当たり英国籍を抜いたことが国民の間で大きな話題となりました。これは裏を返せば、政治家の大半が二重国籍者と一般に認識されているからです。そして、子女の教育や治安状況を理由に家族をかつての亡命先である外国に住まわせたままであることも多いようです。つまり、彼らは当国には単身赴任、理由を付けては家族がいる国に頻繁に公費で出かけているのではないかと思われているのです。一方で、国民は電気や水、医療、子女教育等基礎的サービスも満足に享受できないで喘ぐ日々が続いています。しかも政治家たちはバグダッドにいる間は、庶民から見れば別世界の「グリーンゾーン」に居を構えているわけです。
「イラクの行く末を真剣に憂い、国を良くしていこうと本当に思っているのか。自らを肥やすことしか考えてないのではないか。」こうした冷たい眼で国民から見られても無理からぬものがこの国の政治家たちの振る舞いにはあるような気が私にはしてなりません。それだからこそ、「日本大使にイラク国籍を与えて、選挙に出てもらおう。同じ二重国籍でもきっと日本大使の方がよほどマシに違いない」などという考えが人びとの間で出てくるのでしょう。
4 奇妙な現実
この国では奇妙な現実が見られます。政治家は単身赴任者、そして外交団も単身赴任者という光景です。我々は治安情勢から家族を本邦に残さざるを得ないし、他国外交官も米国大使やトルコ大使を除き、須く単身生活を送っています。結果として、彼我ともに単身赴任者がこの国で政治を行い、また外交活動や経済支援を展開していることになります。この奇妙な状況が解消しない限り、イラクが真の意味での復興—正常化—を成し遂げたとは評価できないのではないか。そうした疑問に駆られつつ、この国の行く末を案じる日々がまだまだ続きそうです。
(平成30年5月29日脱稿)
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