MENU
 

「風の中の竹」になぞらえてタイ外交を論ずる


元駐タイ大使 小島 誠二

はじめに

 タイは外交上手と言われる。ここには、多くの称賛と少しの戸惑いが込められている。称賛されるべきものを一つ挙げるとすれば植民地化されず、独立を維持したことである。戸惑いは、終戦の日の翌日英米への宣戦布告は無効であると宣言し、これに対して米国の支持を取り付けたことから来る。タイは、「風にしなう外交」とか、「バンブー・ディプロマシー」とかの国と言われる。ここに挙げた称賛と戸惑いのいずれも「風にしなう外交」に帰せられるのであろう。「風にしなう外交」はまだ生きているのであろうか。もし生きていれば、これからのタイ外交、特に二国間外交を知るための手掛かりになりそうである。

 タイは、約6,600万人の人口を擁する中規模国家である。一部の中規模国家の外交が、「ミドルパワー外交」と呼ばれることがある。カナダ外交やオーストラリア外交を指して使われることが多い。ブラジル、メキシコ、旧ユーゴスラビアなどを「ミドルパワー」とする文献も見られる。であるならばタイを「ミドルパワー」として議論してみたら何か意味のある成果が得られるかもしれない。特に、地域協力への姿勢、国際社会の諸課題への取り組みなどをとらえ直すという意味がある。

 タイでは、2019年2 月までに総選挙が実施され、軍政から民政への移行が予定されている。現時点で新政権成立後の外交の方向性を占うことは必ずしも、容易とは言えない。本稿では、「風にしなう外交」を論ずることで、政権のいかんにかかわらず、容易に変化することのないタイ外交の枠組みのようなものを探ることとしたい。日本の対応を示唆するところまでたどり着けるかどうかはまだ分からない。タイ外交を見る際のもう一つの視点を提供する「ミドルパワー外交」については別の機会に論じることとし、本稿では必要に応じ触れる程度にしたい。

1.「風にしなう外交」とは何か?

(強靭で柔軟なタイ外交)原典に当たったわけではないが、古いシャムのことわざにおいて外交が「風の中の竹」になぞらえられているようである。竹は力強く根を張り、どこから風が吹こうともしなうだけの十分な柔軟性を有している。時に優雅でさえある。ここから、タイ外交は「バンブー・ディプロマシー」と呼ばれることになる。タイ外交の性格が“bending with the wind”と表現されることもある。しかしながら、このことはタイが風の吹くままに身を任せ、原則を無視した外交を常に行ってきたことを意味するものではない。「バンブー・ディプロマシー」の強靭性と柔軟性は、タイが受け入れざるを得ない現実の中で原則を守ろうとする精一杯の踏ん張りに現れていると見ることもできる。そこから国際社会からの信頼と共感も生まれるのであろう。

(「風にしなう外交」の具体的な内容」)「風にしなう外交」は、宥和(appeasement)、機会主義(opportunism)、同盟(alliance)、時流に乗ること(bandwagoning)などを排除しないが、特定の国家に長期にわたり過度に依存しないことを前提とする。また、タイ外交の実践に見られるように、「風にしなう外交」では、特定の国家との関係を犠牲にしてその他の国家との関係を緊密化しようとはしない。

(「風にしなう外交」誕生の背景)シャムは、植民地政治の中で、欧州大国が支配する風にしなうことを学んだと言われる。このことと関連して、指摘できるのは、19世紀後半からの約100年間、タイは延べ約1,000人の外国人顧問を受け入れてきたことである。国籍も、日本、米国、英国、ドイツ、イタリア、フランス、ロシア、デンマークなど多岐にわたっている。総理大臣役を務める政府総務顧問には、領土的野心を持たない中立国ベルギー出身のギュスターヴ・ロランジャックマンが就任した(日本タイ学会編「タイ事典」)。ロランジャックマン顧問は、1893年の「シャム危機」(注)では、その手腕を発揮することはできなかったが、その後イギリス、フランスと交渉して英仏宣言の下地を醸成した(柿崎一郎「物語 タイの歴史」)。1896年に発表された英仏宣言では、両国はチャオプラヤー川流域を「緩衝地帯」とすることを認め合った。

(「風にしなう外交」を可能にした要因)タイは、インドシナ半島の中央に位置し、地政学的に重要な国である。タイが特定の大国の勢力圏に入ることは、他の大国には避けたいところである。ここからタイにとって「風にしなう外交」を動かす余地が生まれる。冷戦後、近隣諸国との領土紛争を除けば、伝統的な脅威がなくなったことも、「風にしなう外交」を容易にしているのではないか。

タイの経済発展に伴って、タイの市場や投資先としての魅力は高まってきた。現在では中所得国となり、産業の高度化を目指すタイにおいては、高速鉄道・都市鉄道を含む大型インフラ投資のビジネス・チャンスも多い。周辺諸国との連結性も重要となっている。経済面でタイは自己の魅力を高めるための投資優遇策、大型インフラ開発計画などを計画し、実施してきた。最近の動きについては後述する。

 タイの政治文化も、「風にしなう外交」に訴えることを容易にしていると指摘するのは、日本外務省のタイ専門家である。すなわち、「タイにおいては、ある政策の方向性の転換が、それまでの政策を支持していた人たちを完全に追いおとすことはない、また、一時的にパージされる者も、主義や忠誠心に殉ずるまで死ぬ気になって抵抗しない、という政治文化から、機動的な政策変更ができる」のではないか、「外交政策変更にかかる国内政治上のコストが相対的に低いと言える」のではないかと主張する。この点は、終戦時に自由タイが果たした役割との関連で議論したい。

(「風にしなう外交」の問題)「風にしなう外交」の下では、現実と原則がせめぎあう。国益のために現実を優先させれば、原則が失われ、国際社会の信頼を失うかもしれない。また、「風にしなう外交」の柔軟性を優先させると、外交の継続性が失われるおそれがある。前述のタイ専門家が言うように、政策変更に伴う国内政治コストが低いことは、政権の交代によって容易に政策が変更されることを意味する。外交の分野ではないが、最近の例としては、2011年の大洪水後に計画された中長期の洪水対策が凍結され、2013年3月にインラック政権の下で発表された大型インフラ開発計画(2013年-2020年総額4兆2,000憶バーツ)が政権交代とともに事実上棚上げされたことが挙げられる。コプサク首相府相は政権交代に伴う政策の変更を「ストップ&ゴー」と表現している(バンコク週報第831号)。

(注)1893年、フランスが砲艦をもってチャオプラヤー川を封鎖し、数日にわたりシャム王宮を射程距離においた事件、パークナーム事件とも呼ばれる。

2.「風にしなう外交」はどのように展開されてきたか?

(独立の維持)タイは植民地化されることなく、独立を維持することができたが、そのために、1893年メコン川左岸をフランスに、1909年マレー4州を英国にそれぞれ割譲しなければならなかった。独立の維持は「風にしなう外交」の成果と言えるのであろうか。トンチャイは、1893年の「シャム危機」に当たりタイ・エリートが「フランスとの間に事が起これば、英国が必ず助けに来てくれるという幻想を抱いていた」が、実際にはフランスの要求に逡巡するシャムに対して英国は「非協力的だと非難を浴びせさえした」と書いている(トンチャイ・ウィニッチャクン「地図がつくったタイ」)。シャム政府は風を読み間違えたことになる。ただし、前述のとおり、「シャム危機」後、英仏宣言によってチャオプラヤー川流域が「緩衝地帯」とされ、さらにタイは「緩衝地帯」よりはるかに広い領域を維持することに成功した(柿崎一郎「タイの基礎知識」)。中長期的に見れば、「風にしなう外交」は大きな成功を収めたことになる。

(第二次大戦中の日本との関係)1941年12月21日、タイは日本との間に同盟条約を締結し、1942年1月25日には英米に対して宣戦布告した。1941年12月8日にバンコクにおいて通過協定が締結され、ピブーン首相は日本軍の進駐を前にした1941年12月10日の閣議において「嵐が来たときのように、やり過ごして、樹木が折れないようにすること、そうすれば、将来、果実が実り、また食べられるのです」と述べた(吉川利治「同盟国タイと駐屯日本軍」)。この発言を文字通りに受け止めれば、ピブーン首相の念頭には、「風にしなう外交」があったことになる。

(枢軸国側から連合国側へ)ピブーン首相は、対日協力から非協力へ」と態度を変化させていき、1943年11月に東京で開催された大東亜会議には自らの出席を拒否することになる。1944年7月ピブーン人民党内閣が総辞職した後、クワン・アパイウォン政権が成立し、同政権の下で1945年8月16日、プリ―ディー摂政(前蔵相)は、自分が署名しなかったから、宣戦布告文は無効であると宣言した。ここで想起されるのは、先のタイ専門家の見解である。日本との関係についての政策上の大転換が同じ人民党内の政権交代によって実現したわけであり、政治的なコストは相対的に低かったとみられる。もっとも、クアン政権の政策・性格について、「日本との同盟関係は従来と変わらないことを示しつつ、他方で自由タイの活動を支援した」(柿崎一郎「物語 タイの歴史」)とされていたり、自由タイの指導者が議会的な手段によってピブーン体制にとって代わった(Sorasak Ngamcachonkulkid“The New History of the Seri Thai Movement”)とされていたりしており、必ずしも同一政党内の政権交代とは言えないようである。なお、自由タイの標的は戦争や日本軍ではなく、軍政であったとする見解もある(Sorasak前掲書)。

(冷戦時代)第二次大戦後、米国とは同盟関係を構築し、1960年代からのベトナム戦争時には軍事基地を提供した。しかしながら、70年代以降「アジアに吹く新しい風」とみなされた共産中国との調整を徐々に進め、1975年には国交を正常化した。1978年12月のベトナム軍のカンボジア侵攻後、両国関係は「事実上の軍事同盟」にまで発展することになる。1970年代半ばから1988年のチャートチャイ政権成立までの時期の外交は、等距離を志向するものであり、米国、中国、ASEAN諸国などとの安定した関係を目指すものであった。

1990年代のタイ外交)チャートチャイ政権(1988年-91年)は、主として、米国との強固な同盟から中国及びインドシナ諸国との関係へと外交政策を移行させた。また、チャートチャイ政権以降、経済的な利益の追求がタイの外交政策の中心を占めることになる。1988年12月、チャートチャイ首相は、「風にしなう外交」の時代は終わったと宣言するが、筆者には典型的な「風にしなう外交」を展開していたように見える。1990年代の大半においては、政治的な不安性、継続的な政権交代及び金融危機の発生により、地域的な枠組みや国際場裡におけるタイの影響力は弱まったというのがタイ人の受け止め方のようである。しかしながら、1990年代、タイはASEAN自由貿易地帯(AFTA)、グレーター・メコン協力(GMC)、ASEAN地域フォーラム(ARF)、ベンガル湾多分野技術経済協力イニシアティヴ(BIMSTEC)などの実現に貢献したことも事実である。ここには、地域枠組みの設立に熱心なタイがあり、タイの「ミドルパワー外交」の一つの側面が見える。

(タクシン首相による「風向きを変える外交」の試み)タクシン首相は、風にしなうのではなく、風向きを変えようとしたと言われるが、タイのパワーと交渉力の限界及び近隣諸国からの反発があって必ずしも成功しなかったというのが一般的な評価のように思われる。むしろ、中国の増大する政治力・経済力に鑑み、中国配慮を強める一方、米国との関係において、アフガニスタン及びイラクへの部隊派遣、米国によるタイへの非NATO同盟の地位の供与、米国によるFTA交渉の約束、タイ米戦略対話の開催などの前向きの動きがあった。日本との良好な関係は、FTA交渉(後にJTEPAに結実)、アジア協力対話(ACD)への日本の支持、タイによる日本の国連安保理常任理事国入り支持、エーヤーワディ・チャオプラヤー・メコン経済協力戦略会議(ACMECS)に対する日本の貢献などに現れている。タクシン首相も、「風にしなう外交」を続けていたと言える。この点について、先のタイ専門家はタクシン首相は少し違った風を読んでいたとして、タクシン首相は「現在の「風」にはしならかったと言えると思いますが、過去から今、そして将来に向けて吹いている「風」にはよく注意を払っていたのだなぁという思いがいたします」と書いている。これは、タイを熟知し、タイ外交を現場で見てきた専門家の深みのある、示唆に富んだコメントである。

3.「風にしなう外交」は今も生きているか?

 幸いにして、現在の国際社会では、タイは国家の存亡をかけて「風にしなう外交」を展開する必要はなくなった。しかしながら、「風にしなう外交」の伝統は生きているように見える。以下では、そのことを確かめるためにタイと主要国との現在の関係を見ることとしたい。

米国との関係)冷戦終結後、タイの安全保障における米国の役割は、縮小していると言われるが、両国は依然地域の安定という利益と非伝統的な脅威を共有しており、1982年に始められた「コブラ・ゴールド」と呼ばれる合同軍事演習も継続されている。アピシット政権(2008年-11年)では、1990年代のクリントン・チュアン時代以来最も建設的でバランスの取れたタイ米関係が築かれたと言われる。経済面の関係を見ると、米国は、第一の貿易相手国としての地位を失ったが、依然として重要な貿易相手国である。2014年のクーデター発生の当初、欧米諸国とはギクシャクとした関係が続いたが、その後双方で関係修復の努力がなされている。2017年10月プラユット首相は、首相として12年ぶりに米国を公式訪問し、クーデター後初めて米大統領と首脳会談を行った。

(中国との関係)在タイ中国大使館によれば、タイの人口のうち18%が華人系であり、世論調査では70%が中国を最も緊密な友人と答えている。タイは東南アジア諸国の中で中国と最も緊密な関係を有する国であるとされるようになっており、最近では中国がタイの国内体制にまで影響を及ぼしており、中国と中国モデル(管理された市場経済に支えられた権威主義政府)がタイにおいて花開いたという主張さえなされている。中国との緊密な関係は、主として経済的な利益に基づくものである。2013年には中国は日本を抜いて最大の貿易相手国となり、直接投資の面でも、2016年には日本の22.2%に対し、中国は15.0%を占めるに至っている(タイ投資委員会(BOI))認可ベース)。

(日本との関係)日本とタイの両国は、両国の皇室・王室間の親密な関係を基礎に、政治、経済、文化など幅広い面で緊密な関係を築いている。近年、両国首脳が意見を交換する機会は格段に増加しており、両首脳がASEAN関連首脳会議などの多国間の場において共通課題に関する議論にともに参加する機会も多い。1980年代後半以降,日本企業は円高とタイの投資優遇策を理由に積極的にタイに進出し、主として製造業の発展に貢献してきた。この状況に変化は見られない。

4.今後のタイ外交はどうなっていくか?

 新政権の「風にしなう外交」にとっての最大の試練は、中国から吹く強烈な風にどうしなっていくかということであろう。具体的には、外交面において、欧米・日本・一部ASEAN諸国と中国との間でどのような立ち位置をとるかという問題である。ただし、経済面では、中国の台頭はむしろチャンスであり、日本と中国に公平な機会を与えつつ、双方を競わせる戦略をとることができる。

(次の政権の性格)タイ外交の将来を考えるにあたり、明年に予定された選挙においてどのような政権が生まれるかによってその方向は大きく異なってくる。選挙がきちんと実施され、その結果に国民が納得すれば、誕生した政権は正当性を獲得して一定期間安定したものとなると予想される。安定した政権が生まれれば、「ミドルパワー」としてのタイが地域枠組み及び国際機関において、より積極的な役割を果たすことが期待できる。今後いかなる政権が成立しても、目的としての経済及び手段としての経済を重視する姿勢に変化は生じない。

(新憲法下における政策の安定性確保の取り組み)新憲法は、国が国家戦略を定めることを義務付け、国家戦略の詳細は法律の定める原則と方法に従う旨規定している。プラユット政権はこの規定に従って、国家戦略法を制定し(2017年6月採択)、その下で20か年国家戦略を策定している。このような新憲法の規定は、長期の国家戦略に安定性を与える試みである。ただし、すでに公表されている「タイランド4.0」(注1)をビジョンとする新たな国家戦略が新政権によってそのまま引き継がれていくかどうかを今判断することは難しい。

(米国との関係)米国とは、前述のとおり、地域の安定という利益及び非伝統的な脅威を共有している。米国は貿易相手国としても依然重要な位置を占めている。米国が選挙で誕生した政権と一層良好な関係を構築しようとすることは間違いない。急速に存在感を増す中国を前に、タイの「風にしなう外交」は米国を求めている。

(中国との関係)中国との関係は経済面を中心にますます強まっていくと予想される。今やタイにとって第一の貿易相手国となった中国との貿易が引き続き拡大し、最近まで少額にとどまっていたタイ向け直接投資が急速に拡大することも予想される。中国の「一帯一路イニシアティヴ」と「東部経済回廊(EEC)」の提携が合意されていることに現れているようにインフラ面での両国の協力関係は緊密化しよう。中国の技術とタイの資金で建設されるバンコク=ノンカイ間高速鉄道第1期(バンコク=ナコンラーチャシーマ間)工事の起工式が2017年12月ナコンラーチャシーマで開催されている。

(日本との関係)新政権の下においても、地域の安全保障、貿易の自由化を含む地域の経済統合、地球規模課題解決などのための協力が一層進展していくことに対して、タイ国内において幅広い支持が得られることは間違いがない。

高速鉄道、都市鉄道などのインフラ整備については、2012年締結された日タイ鉄道覚書(MOI)に基づいて、バンコク・チェンマイ高速鉄道計画、都市鉄道マスタープラン改定などについて協議が行われている。中国による高速鉄道事業の進展をにらみながらの交渉となる。

 貿易・投資については、日本企業が中心となり、日本政府・政府機関は枠組みの構築・改定などを通じて日本企業を支援する役割にとどまらざるを得ない。タイ政府は、「タイランド4.0」を実現するための10の「ターゲット産業」(次世代自動車、スマート・エレクトロニクス、ロボット産業、デジタル産業など)を選定しており、日本企業の投資を期待している。

 気候変動、人間の安全保障などの面で協力することになれば、タイが「ミドルパワー外交」を実践する助けになる。冒頭のタイの専門家は、タイの隣国での感染症の発生を想定した日本とタイの訓練を協力して実施し、その成果を国際会議で共有した経験を紹介したうえ、タイにおいても「マルチを使ってバイをやる」ことの重要性を指摘している。

ASEANとの関係)ASEAN重視の政策に変化はない。タイの活動は、2015年11月のASEAN首脳会議で採択された「ASEAN 2025: Forging Ahead Together(共に前進する)」(注2)の実現を目指すものとなる。この文書は、「クアラルンプール宣言」、「ASEAN共同体ビジョン2025」及び「3つのブループリント」の3つの文書で構成されており、「3つのブループリント」にはASEAN政治・安全保障共同体、ASEAN経済共同体及びASEAN文化・社会共同体について、ASEAN共同体ビジョン2025を実現するための具体的行動計画が掲げられている。「ミドルパワー」としてのタイは、この行動計画の実現に努めていくことになる。

(近隣諸国との関係)近隣諸国との関係は、国境紛争もあって管理が難しい。タイ国際開発協力機構(TICA)と周辺諸国経済開発協力機構(NEDA)を通じた協力は、「ミドルパワー」としてのタイにとって重要な外交手段となるものである。地域の安定と経済発展という近隣諸国の共通の利益に貢献することにもなる。タイがブラジルやメキシコのような「ミドルパワー」(中進国であり、「周辺の小国に対しては「亜中枢(亜大陸)」の地位にあるという意味での中間国」(馬場伸也編「ミドル・パワーの外交」)であるとすれば、覇権的な姿勢への批判が生じうる。日本が対等なパートナーとして参画していくことの重要性がここにもある。

(注1)国家経済社会開発庁(NESDB)によれば、これまでの農業、軽工業及び重化学工業が中心となった経済社会に対し、第4段階の経済社会(タイランド4.0)では、イノベーション、生産性及びサービス貿易をキーワードとする付加価値を持続的に創造することを目指している。

(注2) ASEAN共同体の今後10年間(2016年-2025年)の方向性を示す文書

(参考文献)
・馬場伸也編「ミドル・パワーの外交 自立と従属の葛藤」日本評論社 1988年
・日本タイ学会=編「タイ事典」めこん 2009年
・柿崎一郎「物語 タイの歴史 微笑みの国の真実」中公新書 2007年
・トンチャイ・ウィニッチャクン「地図がつくったタイ 国民国家誕生の歴史」明石書店 2003年
・柿崎一郎「タイの基礎知識」めこん 2016年
・吉川利治「同盟国タイと駐屯日本軍-「大東亜戦争」期の知られざる国際関係」雄山閣 2010年
・Sorasak Ngamcachonkulkid“The New History of the Seri Thai Movement”,
 Institute of Asian Studies, Chulalongkorn University 2010
・末廣昭「連載「タイと中国・CLMV」 第1回 アジアのゲートウェイを目指すタイ」「タイ国情報」
 2018年1月第52巻第1号 公益財団法人 日本タイ協会
・添谷芳秀「日本の「ミドルパワー」外交-戦後日本の選択と構想」ちくま新書 2005年
・竹田いさみ「物語 オーストラリアの歴史 多文化ミドルパワーの実験」中公新書 2000年
・孫崎享「カナダの教訓 超大国に屈しない外交」 PHP文庫 2013年
・大泉啓一郎「「タイランド4.0」とは何か(前篇)」環太平洋ビジネス情報RIM 2017 Vol.17 No.66