第45回 青年よ大志を抱け

元駐タイ大使 恩田 宗

 「青年よ大志を抱け」は札幌農学校の初代教頭(プレジデント)W・クラークが明治10年離任の際教え子達に与えた惜別の言葉とされている。同校一期生の大島正健は昭和12年の回顧録でこう語っている。「先生は・・一人一人握手をかわすなりヒラリと馬背に跨りBoys be ambitious と叫ぶなり長鞭を馬腹にあて雪泥を蹴って疎林のかなたに姿をかき消された・・汝等は常に大志を抱き国家有用の材たれよと・・呼びかけられたのである。」この一節が昭和22年の中等国語教科書に載せられクラーク伝説として日本で広く知られるようになった。

 然し近年あの格調高い日本語訳に問題が指摘されている。北大付属図書館報「楡蔭」29号(1972年)の参考室メモによると明治27年農学校学芸会誌「薫林」に予科生安藤幾三郎がクラークはBoys be ambitious like this old man と叫んだと書いている。又大島自身も大正15年Japan Christian Intelligencerへの寄稿文に・・like  this old manと記している。クラークが「私のように」と言ったのだとすると「大志を抱け」は大げさ過ぎる。彼は努力家ではあったが大志大望に一生をかけるというタイプの人ではなかったからである。

 クラークの米国での唯一人の伝記作者J・M・マキはその著書(1978年)で「クラークは・・本国アメリカでは無名に等しい」と述べアマースト大学の教授、南北戦争の義勇連隊の指揮官、マサチューセッツ農学校の初代校長としてそれぞれ注目すべき業績を挙げ人々の尊敬を得たが「いわゆる偉大な人間」ではないと評している。日本から帰った後は鉱山の経営に乗り出し一時は成功したものの結果は大失敗でアマーストの多くの市民に損害をかけ訴訟沙汰と病苦で晩年は悲惨な日々を送ったらしい。彼を特徴づけるのは目の前に迫りくるものに対しては断固として受けて立つ果敢な闘争心だという。私のように何事にも怯まず挑戦せよと檄を飛ばして去ったとする方がクラークらしいことになる。

 大島の回顧録は亡くなる一年前に病床で口述されたものである。79歳になりなお「思い泛べて見ると・・ああ先生と呼びかけてその胸に抱きつきたい気がする」とまで追慕せしめる何があったのだろうか。クラークは剛毅な性格生のままに情熱を込めて妥協のない教育を施した。期間は僅か8ヶ月半、授業に専念できた訳でもない。彼の言う「奇妙な国」の青年個々人と深い理解が成立したとは思えない。他方日本各地から青雲の志を立て意気込んで北辺の地に集まった生徒達も「私のように」との師の訓言を自分達の身に引きかえてしか理解し得なかった。クラークと生徒達の間にあったのはほとばしる魂の触れ合いとでもいうべきものだったのだと思う。