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予想外にウケる海外での能公演


元駐デンマーク大使 小川 郷太郎

驚くべき能の柔軟性と訴える力

 この数年来、海外での能公演のお手伝いをしている。学生時代に、せめて少しだけ教養をと思って何度か能を見に行ったが、あまりのゆっくりしたテンポや単調に見えた演者の動き、それに心地よいけれど難解な台詞や謡のために何度も睡魔が襲い、気が付いた時には終演間近というありさまだった。海外公演を手伝ううちに少しは「教養」が高まったかというと、何か深いものがあるなあという感興を覚えるようになった程度で、まだその深いものが何であるかもわからないのは、我ながら情けない話である。

 それでも、2015年には日韓国交正常化50周年の機会にソウルと東京で能と韓国伝統舞踊協働の舞踊劇を演じ、翌年は日伊国交150周年を記念して「天正少年使節団」をテーマとした新作能も用意してかつて少年使節団が訪れたイタリアのゆかりの都市などを廻った。昨年はデンマークとの国交150周年であったが、コペンハーゲン北方のハムレットの舞台として知られるクロンボー城での国際シェークスピア祭に日本の能として初めて参加した。演目は新作能「オフィーリア」である。本年5月末には日スウェーデン国交150周年記念行事の一環としてストックホルムでの能公演を予定しているが、ここでは今や国際的関心の高まってきた「北斎」という新作能を準備をしている。

 伝統をしっかり維持して海外で多彩な演能を展開している能楽師は櫻間右陣師である。同師は櫻間會第21代当主というから、起源を源平の時代にさかのぼる能の家元を継いでいる方である。国内外で幅広い活動を展開しているが、海外での公演も長きに及んでいる。その継続的な海外公演を支援するための組織として3年前に一般社団法人「鴻臚舍」を創り、筆者はその代表理事を仰せつかっている。いまだ能の神髄を理解するまでには至らないものの、「門前の小僧」として見ていて驚くことがふたつある。ひとつは、古来の様式を堅持しながら多様なテーマに取り組み海外の異なる舞台環境にもうまく適合する、能の驚くべき柔軟性であり、もうひとつは、大多数が能を見るのは初めてである海外の観客の好意的で強い反応である。

ハムレットの城で能の「オフィーリア」公演

 その柔軟性の一例をご披露したい。クロンボー城は多くの人がご存知の通り、シェークスピアの戯曲「ハムレット」の舞台となった古城である。その城で毎年国際シェークスピア祭が行われているが、咋年の8月22日、23日の両日、新作能「オフィーリア」を上演した。この能を創作し自らシテ役としてオフィーリアとハムレットを演じたのは、他でもない櫻間右陣師である。私自身は、右陣先生がどのようにして能の手法でハムレットの世界を演出するのか興味津々であった。先ず感心したのは舞台装置である。否、正確に言えば、舞台装置が何もない事である。

 この年のシェークスピア祭では、城壁に接する濠と陸地に跨って特設の大きな野外舞台が作られた。ここで前々日まで、よく工夫された舞台装置のなかで動きの早い俳優たちがハムレットを演じていた。能が始まるこの日の舞台には、大道具や小道具などは何もない。あるのは、後方に北欧材の白木の板を繋ぎ合わせただけの無地の屏風が立つ。同じ板を床にも敷いている。色も塗らない裸の白木が却って清楚感を醸し出す。舞台の簡素さが際立っている。舞台の背後に城壁があり、その上にクロンボー城が見える。日没の遅いヨーロッパの夏は開演時間の午後8時でもまだ明るい。9時過ぎに暗くなると濠の水が照明に反射してゆらゆらとうごめいて、あたかも薪能を思わせる。ときどき背景の暗い濠に白鳥が滑るように泳ぎ出て、そこに光が当たるとまるで演技に参加しているかのごとくで、幽玄さを増してくれる。いくつかの海外の公演を見てきたが、日本の能楽堂とは異なる現地の状況に合わせて舞台を作る能の柔軟性は凄いものだ。

 何もない舞台の背後から笛の音が聞こえて囃子方の奏者が静かに羽織袴で登場し、順次舞台に正座または着座する。笛や鼓が奏でられ、そのリズムが徐々に高まるなかで面をつけたオフィーリアが登場。赤い花を手にして無言の舞を舞う。まさに幽玄というべき雰囲気である。オフィーリア退場のあと、ホレーシオの子孫(ワキ)が登場。この子孫が先祖から聞いた話を伝えるという設定。ついで狂言役が墓掘りとして登場。仕草がとっても面白く観客の笑いを誘う。真っ白なボールを頭蓋骨として表現。物語が展開する中でハムレットの霊が登場。セリフを交えて舞う。休憩のあと、囃子方の息の合った奏楽に乗って、オフィーリアが冒頭のときとは違う花柄の衣装で再登場。オフィーリアが退場するとハムレットが衣装と面を変えて再び登場。この時の面は憂いと悲しみの表情を湛えているようで、何とも言えず素晴らしい。ハムレットとレアーティーズとの決闘は日本刀を持っての立ち廻り。見ごたえのある名演技である。最後にハムレットは飛び上がったうえで墓の中に倒れ込んで果てる。いつもはゆっくりとしている演者の動きだが、この時ばかりは俊敏な動作があってその妙味が一層引き立った感じがした。そしてまた静寂。背景のクロンボー城がライトアップされ、水面が光に反射してうごめく。終末を奏でる厳かな笛や鼓と太鼓の中で、ワキのホレーシオが、そして起き上ったハムレットが静かに退場。

 見ていてなるほどと思った。能の舞台は現実の世界を表現するのではなく、昔の人の霊や亡霊が登場して語ったりする。ジャンルの異なるハムレットと能をこうした要素を組み合せて戯曲を構成した画期的な試みであったが、しっくりとして相性は良かったと感じた。シェークスピア祭の総合芸術監督が、「ハムレットの世界を能という芸術で表現してくれたことは実に革新的で、このようなことが実現できたことを誇りに思う」と繰り返し評価してくれた。

感激した面持ちの観客

 8月も下旬に入った北欧の夜は寒くなる。野外の劇場ではジャンパーや毛布も必要になるが、観客はずっと舞台を見て動かない。終演直後もしばらくその場にとどまって友人たちと興奮した面持ちで感想を述べ合ったり、余韻を楽しんでいるような人たちもいる。一

 昨年の日伊国交150周年行事の一環としてイタリア4都市で能公演をした時もそうであった。公演中は、観ている人たちが目を輝かせて舞台を見詰めている。大きな拍手で終わった後もその場にとどまっている人が多く、日本人の私たちに質問をしてくることもある。劇場を出たところで、まだ能について議論している若い人たちのグループもあった。細部はわからなくても、身体で雰囲気や感興を楽しんでいるようにも見える。

 日本人の私の能の理解度が低いためか、外国の人に能を楽しんでもらえるだろうかと案じていたが、どうやら杞憂かもしれない。物の本や聞いたところによると、能では台詞の読み合わせ、立ち稽古、舞台稽古、リハーサルなどは行わず、「申し合わせ」といって、流儀を異にする各役が集まってたった一度だけおさらいをして、あとはぶっつけ本番でやるらしい。しかも、シテから地謡まで全員が暗記で演じる。しかし、細部にわたってがんじ搦めで規則にとらわれるものではないという。曲に記されたテキストは骨格であって、それを肉付けして演じる内容は役者の解釈や感性にかかっているのだそうだ。その解釈には自由裁量の幅があり、自由闊達に演ずることも可能である。思うに、能はその簡素さゆえに演じ方の自由度も増すのかもしれない。演じる人物や精霊の心情を表すためにどの面を使うか、表情は動かない面があたかも生きているように見せるにはどう演じるか、工夫の余地は大きい。それだけに演者は日頃から訓練を積んでいることが求められる。他方で観る方は、想像力を駆使して演者の心象や言動、さらに余計なものが一切ない舞台の上の風景や空気までも解読する必要があるとされる。言い換えれば、観る方も呑気に受け身ではいられないのであろう。

 ヨーロッパの人々は、初めて見る能に強い好奇心をもって舞台の風景や演者の仕草などを必死に「解読」しようとするのかもしれない。それが舞台を見詰める生き生きした目つきにするのではないか。そして、想像力をこらして行った自分の解読の当否について仲間たちと意見を交わしているのだろう。欧州の観客の多くが紅潮した面持ちで能を楽しんでいるように見えるのは、そのせいかもしれない。そうだとすると、彼らの能を見る姿勢から学ぶこともできる。舞台に登場する精霊の心情を解読したり、演者が表現する自由闊達な動作の意味を考えたりすれば、能に対する興味は増すに違いない。そうだ、能は能動的に見るべきものだろう。そんな風に考えると、5月にストックホルムの宮殿で行われる公演で、自ら「画狂老人」と称した北斎が能の中でどのように表現されるのか、今から想像するだけでも楽しみである。

 海外で能の公演をお手伝いすることの意義や価値を次第に強く感じるようになっている。