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第42回 トロイ戦争とギリシャ人

元駐タイ大使 恩田 宗

 オデュッセイウスはトロイ戦争からの帰国の船旅で様々な苦難に遭遇する。その一つであるが洞穴に潜む六つ首の怪物スキュレに襲われる。目の前で6人の部下が「断末魔の苦しみに悲鳴をあげながら」食い殺されるが危うく逃げ延びほうほうの体で近くの島に上陸した。それからどうしたか、「オデュッセイア」にはこう書いてある。「部下たちは船をおりて手際よく夕餉をととのえた。やがて飲食の欲を払い去ると今度は・・スキュレの餌食となった・・僚友たちを偲んで泣き悲しんだが、悲しむうちに甘い眠りが訪れてきた。」 

 一行は先ず夕食をとり腹がくちたら友を悼んでひとしきり泣きそのうち眠くなったので寝てしまった。小説家のA・ハックスレーはそれが現実の人間の包み隠しのない姿ではないかという。「叙事詩」作家のホメロスは人間の営みのありのままの真実(the whole truth)をあった通りに語っていると書いている。

 最強の将軍アキレウスも無二の親友が戦死した夜はさすがに食物に手を出さなかったがその仇を討った翌日には「・・だが今は、食いたくもない食事に屈することとしよう」と言って豪華な宴席につく。戦場では誰もが戦利品の獲得に熱心で敵が倒れるとその場で武具の剥ぎ取りにかかり死骸をめぐって揉み合いをする。女性は第一の略奪対象で「イリアス」の第1章では総帥のアガメムノンとアキレウスが若い美女の取り合いで喧嘩をする。

 ホメロスの描く将軍や兵士は悪く言えば粗野良く言えばおおらかである。友情・勇気・矜持など高貴な精神も発揮するが食欲・物欲・性欲など諸欲をもろに表出して恥じない。人間が本音と建て前を使い分けするようになる前の生(き)のままの姿である。

 ギリシャ連合軍は30数ヵ都市の約1,100艘の軍船で推定最大13万の兵力をもって攻撃し10年かけてヘレネを取り戻しトロイを破壊して凱旋した。ギリシャ兵はトロイの市民を虐殺し多くの僚友を戦闘や疫病や船の遭難で失ったが身分に応じて多くの戦利品を抱え帰国した。その姿に暗い影など感じられない。3,200年後にアフガン遠征をした米国主導の有志諸国連合軍も同規模で49ヵ国13万強の兵力が動員された。同様にほぼ10年でビンラーデンも始末して引き上げた。しかし帰還兵の中には自分のした事みた事に耐えられず未だにトラウマで苦しむ者が多いという。

 ギリシャ軍への食糧はフェニキアの商人が供給していたらしい。ホメロスの詩の中では英雄達は毎晩のように贅沢な肉料理を食べているが当時のギリシャ人は大麦の粥が主食であり肉食は特別な行事のときの御馳走だったという。彼の語る物語も多少割り引いて詠む必要があるかもしれない。