塾生と向き合う日々

元外務次官 藪中 三十二

 塾生と向き合っていると、呆れたり、ドッキリしたりと忙しいことが多い。しかし、こちらが教えているようでも、若者から教えられることも少なくない。

 自然発生的にスタートしたグローバル寺子屋藪中塾、毎年20名くらいの若者が入ってくる。今年で4年目を迎えた寺子屋だが、関西の大学が中心で、私が籍を置いている立命館大学の他、京都大学、大阪大学、同志社大学、関西学院大学と広がっており、今年はさらに早稲田大学と上智大学からも1名ずつ参加している。上智大学からの塾生は二十歳になったばかりの女性で、最初は夜行バスでやってきたが、さすがにお母さんが夜行バスはやめてほしいということで、今は新幹線でやってくる。

 月に一度、土曜日丸一日かけて議論をするのが中心だが、そのために月担当の塾生が様々のアイデアを練り、事前に会合をし、スカイプでの議論もしている。事前、事後にレポートも作っている。このために使う時間は相当のはずで、何の結果も残さない塾での活動にこれだけの時間を使ってくれていることに頭が下がる思いである。

 ここで扱う課題は中国問題、北朝鮮問題といった国際関係のトピックスに加え、人工知能、ゲノム編集技術といった最新の科学問題、さらにはジェンダー問題と多彩である。こうした課題は塾生が議論して決めている。塾生のバックグラウンドも多様で、法学部、国際関係学部といった文科系だけでなく、工学や生物専攻の学生、さらには高校の先生と様々である。

 塾は4月からの1年間だが、塾生は公募して選抜する形をとっている。これも自然発生的に始まった数人の塾生が一年を終える時に、「来年からは公募でやりましょう。そのために2月に大きな公開講座をやりましょうよ」といったところから始まった。「公開講座で大物ゲストを呼びましょうよ、塾長」、と気安く言ってくれるが、財源ゼロの寺子屋だけに、謝礼を出す余裕もなく、大物ゲストにきてもらうなどというのは不可能に近い。このため第一回公開講座は無理を言って田中均さんに来てもらった。そして塾生を募ったが、100人近い学生から応募があり、書類審査を経て面接で20名に絞り込むこととなった。塾生が審査官で、僕は面接に付き合う程度、という塾生中心の運営が実質的にスタートしたのが3年前のことである。

 4月から始まる月一回の会合、土曜日の午後2時に集まり7時まで5時間のセッションである。各回担当の塾生数名がテーマに沿って事前ペーパーを作成し、皆にLINEで共有する。そして議論のポイントにそってしっかりと準備し、寺子屋にやってくる。といっても、最初から議論が活発に展開するわけではない。遠慮があるのか、それとも議論に慣れていないのか、「もっと激しく議論しろよ」と心の中で叫びながら、塾生のやり取りを見守ることになる。しかし、回を重ねるごとに、はっきりと進歩してくる。

 生物を専門にしている塾生がいて「ゲノム編集技術」を取り上げた時は衝撃だった。外務省で経済交渉をやっていた時に遺伝子組換えを巡って議論になったが、神のハサミとも呼ばれるこの技術はそんな程度の話ではなさそうであり、正確で簡便な遺伝子操作が可能になったというのだ。マラリアを媒介する蚊の遺伝子を操作すれば、マラリア退治に効果大と言われれば、それはいいな、となる。しかしヒトに応用するとデザイナー・ベイビー誕生も不可能ではないとなると、倫理の問題が出てくる。こうした専門的な紹介に加えて、法学部系の塾生が法的規制の検討など、世界の動きを発表してくれた。

 いや、大変な時代だ。こうした議論をした直後に、アメリカでヒト受精卵を修復、というニュースが入ってきた。ゲノム「編集」などという言葉を聞くと、素人目にはそれほどたいしたことではないのかなと思ってしまいがちだが、ことは重大である。これは分子生物学者だけでなく、もっと幅広く関心を持つべき事態だと痛感させてくれたのも寺子屋学習だった。

 8月には合宿がある。京都の妙心寺、毎年その塔頭、大心院での合宿である。これも随分とハードな日程である。土曜日の午後から夜中まで、そして日曜の朝から夕方まで、熱く議論が展開される。とりわけこの合宿を境に塾生の間の仲間意識が強まり、まさに同じ釜の飯を食った仲間という雰囲気が出てくる。この寺子屋の特色の一つが議論の後の懇親会である。会議室での議論の後、夕食を共にし、懇親会が始まる。やはり食事を共にする効用は大きい。

 そして、塾生が多彩な活動を繰り広げていることに驚かされる。日米学生会議の中心人物だった塾生、Intercollegiate Negotiationで優勝した塾生、中国や中東にさっさと出向く塾生、Women’s Summitを主催する塾生など、その元気さにはこちらが圧倒される。内向きの若者が多いといったイメージは、少なくとも我が寺子屋にはまったく該当しないばかりか、私などの行動範囲をはるかに超えている。

 こうした塾生たちも1年で旅立っていく。そして旅立つ塾生の行先も実に多彩で面白い。これまで巣立った塾生の中で、毎年、外務省や経産省などに入るものがいる。変り種は2期生で、自衛隊に入隊するのが二人もいた。女性陣はさらに多彩で東大や京大の大学院に進むもの、イギリスの大学院に行くもの、アフリカへ海外青年協力隊で行くものもいる。進む進路は違っても、みな、世界を目指している。

 しかし、彼らもずっとつながっていたいと思ってくれるようで、卒塾後も夏の合宿にやってきたり、普段の月一度の会合に現れるOBも少なくない。そして東京でのOB会も出来てきた。いつの日か、こうした塾生にご馳走になる日が来ることを楽しみに、今は塾生と本気で向き合う今日この頃である。

 この寺子屋が今の活動の中心をなすようになってきたが、塾の活動の番外編として塾生の要望に応じながら、京都や奈良の寺巡りも加わった。塾生をまず案内するのが太秦広隆寺だ。この寺は京都の太秦にある。太秦、ウズマサと読むが不思議な寺である。日本の国宝第1号の栄に浴している弥勒菩薩半跏思惟像がおられる寺である。これだけでも日本でも特別な存在のはずであるが、観光のハイシーズンでもこの寺を訪れる人はまばらである。そして寺の眼前を路面電車が走り、トラックが行き交っている。路面電車を降り、寺に一歩入ると、京都の寺ではなく、そこには飛鳥がある、と感じた。京都の寺は何と言っても庭が売り物で、見事な紅葉や桜の華やかさが際立っている。そうした華やかさを求めて多くの旅行者が京都にやってくるが、広隆寺は京都の寺の華やかさとは無縁である。南大門を一歩入ると、砂利の道と松の木があるだけである。

 広隆寺沿革によると、広隆寺は推古天皇11年(603年)に建立されたとあり、法隆寺などと共に聖徳太子建立の日本七大寺の一つとのことである。日本書紀によれば秦河勝が聖徳太子から仏像を賜り、それを御本尊として建立したとあり、その御本尊が国宝第1号の弥勒菩薩である。

 これだけの歴史と風格のあるはずの大寺が粗末に扱われているのは何故だろうかと不思議な思いがする。いや粗末になど扱ってはいない、といった反論もあるかもしれないが、南大門の1メートル前を路面電車が通っている、というのはいかにもおかしい。大寺にはもう少し敬意を払って当たり前ではないか、と思うのは私だけであろうか。そこに秦河勝という人の存在があるのだろうか。秦氏が日本に渡来したのは応神天皇の時とされているが、聖徳太子の時代、聖徳太子に仕え、養蚕や土木工事などで力を蓄え、山城地方に根を張ったとされている。秦氏については「謎の渡来人 秦氏」や「伏見稲荷の暗号 秦氏の謎」といったタイトルの本が数多く出されており、どこかしら謎めいた空気が漂っている。そして広隆寺とゆかりのある秦河勝はうつぼ舟に乗って西海に出、播磨の国にたどり着いたところで神となっていた、と伝えられている。そして世阿弥は秦氏を名乗り、申楽の創始者を秦河勝だとしている。

 こうした謎めいた秦氏だが、新羅系と見られており、一時期、勢いをもった秦氏だったが、藤原の時代以降、明らかに新羅系を日本の歴史の記憶からできるだけ排除していこうとする思惑も見て取れるのである。そこに聖徳太子も関係してきて、広隆寺が不思議な寺となっていく。広隆寺の本尊は聖徳太子像である。聖徳太子三十三歳の時のお姿が祀られている。この聖徳太子像には歴代天皇の即位後、御束帯(御即位のとき着御される衣服)が贈進され着用されているというのだから、これも不思議きわまりない話だ。この聖徳太子像は年に一度、11月22日に御開帳される。御火焚き祭も執り行われるというので11月22日に広隆寺に出向いた。眼前に聖徳太子像がおられる。そして確かに黄櫨染御袍(こうろぜんごほう)の御束帯を召されていた。

 いまひとつ不思議な気がしたのは、この寺を守る地元の人たちの風情だった。ここは自分たちがお守りする寺だ、という雰囲気が色濃く漂い、御火焚き祭もまさに地元の祭という感覚だった。地元の人が、当たり前のように、「ああそうですよ、聖徳太子さんが着たはるのは天皇さんが御即位のときに着張った装束ですよ」と言われ、何とも味わい深かった。一緒に寺に行った塾生たちも目を輝かせて興味深い歴史のなかに吸い込まれていった。

 そして霊宝殿におられるのが弥勒菩薩半跏思惟像である。ドイツの哲学者カール・ヤスパースが「地上におけるすべての時間的なるもの、束縛を超えて達し得た人間の存在の最も清浄な、最も円満な、最も永遠な、姿のシンボル」だと評した弥勒菩薩である。ありがたいのは、壇上で正座し、この弥勒菩薩と静かに対座できることである。かなりの時間が経った。

 南大門を出て、古い三条通りを歩いて行く。その先には蚕ノ社がある。めずらしい三柱鳥居がひそやかに糺ノ森に佇んでいて、ここも秦氏ゆかりの地である。

グローバル寺子屋「藪中塾」夏合宿(妙心寺)