日本とミクロネシア
駐ミクロネシア大使 堀江 良一
ミクロネシア連邦のクリスチャン大統領は、2017年10月23日~26日に公式に日本を訪問した。同大統領は、2015年5月に第8代大統領に就任した直後に福島県で開催された第7回太平洋島サミットに出席するため訪日しているが、二国間の公式訪問は今回が初めて。実務訪問ではあったが、天皇陛下御会見、河野外務大臣主催夕食会、森元総理との会談、友好議連との懇談、総理官邸での儀仗、安倍総理との首脳会談、総理主催夕食会と盛りだくさんの日程であった。大統領が東京に到着されたのは、丁度台風21号が去った直後で、河野外務大臣主催の夕食会が行われた大磯の旧吉田茂邸からは、台風一過で、美しい富士山が見えた。
ミクロネシアと日本との歴史的つながりは、長く、深い。大統領訪日中に、日本側関係者から、2018年が両国の外交関係開設30周年であることに言及がなされると、大統領は決まって「30周年が重要な節目であることは当然であるが、両国の関係はそれを超えて長年にわたる密接なものである」という趣旨の発言をされていた。日本から初期の移民がミクロネシアにやって来たのは、1890年代であり、1914年から45年までは日本がこの地を統治していた。全人口の約2割は、何らかの形で日本人を祖先に持つ「日系人」と言われており、初代大統領(トシヲ・ナカヤマ)も第7代大統領(エマニュエル・モリ)も「日系人」である。在京大使館のジョン・フリッツ大使もロジャー・モリ公使も「日系人」。クリスチャン大統領は、「日系人」ではないが、両親は日本統治時代に日本語教育を受けた世代である。大統領は、日本語の話題になると必ず、「両親は、子供の私に聞かせたくない話題になると、すぐに日本語で話し始めた」と言われる。
首都のあるポンペイ州にも多くの日系人がいる。その内の1人が最近(2017年11月1日)亡くなられた。Y氏、享年86歳。Y氏の父親は、戦前日本から仕事で当地に来られ、現地の女性と結婚。3人の息子と1人の娘と幸せに暮らしていた。しかし、戦後、父親は日本に強制退去。訳あって、子供4人は母親と共にポンペイに残った。Y氏曰く「父親は、必ずポンペイに戻って来ると言い残して日本に行ったきり、結局、一度も戻ることなく、日本で病死しました」。その後、長女と三男は他界し、残ったのはY氏と次男。「終戦の時、私は14歳、弟が11歳。二人とも、日本語しかできなかったので、苦労して英語とポンペイ語を勉強しました。随分いじめられたし、周囲の日系人は、日本の名前を捨てて現地の名前に変えた人も多くいましたが、私達はYという父親の名前を使い続けて来ました」と、Y氏が言っていたことを思い出す。Y氏兄弟は、州政府の仕事をする傍ら、不動産業や小売業でも成功し、ポンペイの名家の1つになっている。Y氏の訃報に接したのは、私が大統領訪日の同行から戻った直後であった。戦前に日本語教育を受けた世代は、次第に高齢になり、亡くなる方が増えている。また日本語世代の1人を失ってしまった。Y氏のご冥福をお祈りする。
戦前、ミクロネシアのトラック諸島(現チューク州)に日本海軍の基地があったことは有名であるが、ポナペ(現ポンペイ州)で、日本人が多くの事業を営んでいたことは、あまり知られていないかもしれない。その内の一つが、鰹節工場であったそうだ。現在ミクロネシアで合弁事業(TMC:大洋ミクロネシア・コーポレーション)を行っている大洋エーアンドエフが、2018年早々に、ここで鰹節生産を開始予定。現地雇用にも寄与するプロジェクトで、大統領を始めとする当地各界からの期待も高い。TMCは、当地でカツオを中心に漁業活動を行っており、その事業規模は当国経済の約2割に相当する。それに加えて、鰹節の生産である。いずれメイド・イン・ミクロネシアの鰹節が日本に輸出されることになろう。
大統領が言われるように、両国の関係は長くて深いが、現地の日本大使としては、外交関係開設30周年という節目の年を、是非盛り上げていきたい。日本の各界の方々の御協力をお願いする次第である。(なお、意見にわたる部分は、筆者の個人的見解である。)