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日独交流とベートーヴェン「第九」の誕生


元外務省参与NGO担当大使 元駐ザンビア大使 五月女 光弘

“三帝国” を結ぶ長い旅路の物語

はじめに

 時を超え歌い継がれる歓喜の歌声“フロイデ!”、日本で最も親しまれ歌われ、そしてテレビ・コマーシャルでも流される交響曲。それはベートーヴェンの交響曲第九番「合唱」でしょう。今年は日本で初めて第九が歌われてから99年、来年2018年に百周年を迎えます。いったいこの曲がどのように生まれ、どのような道程を経て日本にやってきたのか、その長い旅路を辿ってみましょう。

 この物語は、以前私が徳島県鳴門市の「旧板東俘虜収容所」を訪問した際に、地元の古老からお聞きした話も交え記述したものです。

“神聖ローマ帝国” から始まる「第九」の旅路

 ベート-ヴェンは1770年12月16日に神聖ローマ帝国(後にドイツ帝国)のボンで誕生、若いころから天才ぶりを発揮、ピアノ曲の作曲で名声を博し、交響曲作曲構想を持ちつつ20代半ばにオーストリア帝国のウィーンに移り住み、1815年から交響曲第九の作曲に取り組みました。そして1824年初頭に、彼の敬愛し愛読したフリ-ドリッヒ・シラーの頌詩「歓喜に寄す、An die Freude」を抜粋し、第4楽章の合唱部分に書き入れて全てが完成したのでした。

“オーストリア帝国”ウィーンでの初演は?

 1824年5月7日にウィーンのケルントナートーア劇場で第九の初演奏が行われ大成功を収めました。その時の演奏は次のような編成でした。

 40歳頃に全聾となったベートーヴェンが総監督としてメトロノームを使いテンポを指示、指揮は第一指揮者のミヒャエル・ウムラウフ。他に第二指揮者(コンサートマスター兼務)、合唱指揮者。管弦楽団総数約100名。少年合唱団(ソプラノ・アルトのパート担当)男声合唱団(テノール・バスのパート担当)総数約80名。ソリストはソプラノとアルトは女性、テノールとバスは男性が歌いました。

 その後ベートーヴェンは第十交響曲の作曲に取り掛かりましたが未完成のまま、3年後の1827年3月26日に57歳でこの世を去ったのでした。

日英同盟と青島要塞攻略戦

 1914年、欧州で始まった第一次世界大戦の際、日本帝国は日英同盟に基づきドイツ帝国に宣戦を布告、ドイツの租界地である中国の青島(チンタオ)守備隊を攻撃することとなりました。日本軍主力は久留米第18師団29000、司令官は神尾光臣陸軍中将(後に大将、作家有島武雄の岳父)、参謀長は山梨半造陸軍少将(ドイツ留学経験あるドイツ通)で、攻撃を前にドイツ軍守備隊(指揮官ワルデック海軍大佐)に対し通告します。

 “青島要塞内の外国人、民間人、婦女子、病人などを要塞外の安全な場所へ移すこと、要塞内の攻撃されたくない場所、病院、水源、食糧庫などの屋根に目印の白旗を掲げること”そして1ケ月の後の10月31日、日本陸海軍は青島要塞に総攻撃を開始、そして1週間後、孤立無援で戦うドイツ軍に対し降伏を勧告します。それに応じてドイツ軍4700は11月7日に降伏しました。神尾司令官は、ドイツ軍兵士に呼びかけます。“諸君は祖国から遠く離れた孤立無援の中で祖国の為に勇敢に戦ったことに敬意を表します。しばらく日本で休んで下さい。日本国民は必ずや諸君の勇気と愛国心を称え客人として迎えることでしょう。”そして捕虜たちは日本各地の俘虜収容所に収容されましたが、その内の約1100名が徳島県の板東俘虜収容所(現在の鳴門市)に送られたのです。

「関ヶ原」、「川中島」と「青島攻略戦」の戦死比率

 1600年の“天下分け目の大合戦”と云われた関ヶ原の戦いは、東軍徳川方約9万、西軍石田方約8万、総計約17万の大軍で戦われた事になっていましたが、戦死者総数は8千で、戦死比率はたったの5%。ほとんどの大名は戦わず、寝返り、裏切り、逃亡などで、まじめに戦った大名が損をした合戦でした。ちなみに1561年、本気で戦った上杉謙信・武田信玄の第四次川中島合戦では、両軍総数3万、戦死8千で戦死比率は26%だったと云われています。

 他方、青島要塞攻防戦では日独両軍合わせた戦死者は450、戦死比率は1%少々でした。これは多分世界戦史上の最少の数字で、相手に対する思いやりと寛容の戦いであった証しなのでしょう。徳島をはじめとする6ヶ所の収容所に送られた兵士達は温かく迎えいれられたとのことです。

“日本帝国”最初の「第九」の演奏は?

 板東収容所長の松江豊寿大佐(後に少将)は寛容篤実の士でした。明治維新の際、政府軍と戦って敗北した徳川幕府側の旧会津藩士の子息で敗者の苦しみを知る者として、ドイツ軍捕虜に温情を持って接し、彼らを文化人、科学者、芸術家として高く評価したのです。  そして1918年6月1日、捕虜たちは遥か祖国に思いを馳せつつ、日本初のベートーヴェンの交響曲第九を演奏しましたが、その編成は次のようでした。

 指揮者はハンゼン軍楽隊長、オーケストラとしてドイツ沿岸砲兵軍楽隊45名、合唱団はドイツ軍青島(チンタオ)守備隊兵士80名。ソリストも4パート全員男性兵士でした。楽器は青島からの持ち込みと日本人有志からの提供でした。その際の聴衆は捕虜達と松江大佐以下日本軍警備兵達及び地元の有志だけでしたが立派な演奏が行われたとのことです。

 そして終戦により2年8カ月の収容所生活を終えてドイツに帰国を前に、彼らに温かく接してくれた地元板東集落の民500人全員を招き感謝を込めて盛大な第九の演奏会を行い、大きな感動を与えたのでした。

「第九」を廻る恩義の輪廻

 日本側の寛大さに恩義を感じた捕虜たちの中から、例えば軍医は近代ドイツ医学を大学で講義、工兵隊は鉄橋・道路建設技術を指導し、日本の技術向上に貢献しました。更に菓子作りの名手カール・ユーハイムや、ソーセージやチーズ作りの名手アウグスト・ローマイヤ等もそれぞれ日本の職人に技術を伝授、日本社会に貢献をしたのです。

 寛容な処遇で捕虜達から信頼され慕われた松江豊寿大佐は、その後浜田第21連隊の連隊長に転任、少将として退官、故郷へ戻り会津若松市長として市民の為に尽されました。

終わりに

 日本人による初の全4楽章演奏は、1924年11月29日、東京音楽学校(現東京藝術大学)による演奏でした。そして12月に第九がよく演奏される国は、ドイツ、オーストリア、そして日本の3カ国だそうです。なぜ12月なのでしょう? 諸説ありますが、1年の締め括りとして12月はみんなが愛するベートーヴェンの誕生月を祝って歌うのです、と云う事にしておきましょう。平和を願う“Freude!”<友よ!>の歌声が更に世界の国々に広がりますように。 (終わり)

<付記>

 私が所属する第九を歌う「東京フロイデ合唱団」は今年第20回目の演奏会を迎えます。団員250名、毎年東京芸術劇場で満席のお客をお迎えし、日本フィルハーモニー交響楽団、トップレベルの指揮者ソリストと共に演奏します。元々この合唱団は東京都公益法人「東京高齢協会合唱団」として、高齢者に元気と生き甲斐を与え地域に貢献する活動をするために創設された団体で、これまでの最高齢は94歳、70代は鼻たれ小僧です。来年2月には全国で第九を歌う合唱団が、鳴門市の「板東俘虜収容所」跡の記念会堂に集結し、「ベートーヴェン第九」日本演奏百周年を祝う記念の演奏会が開催されることになっています。