第37回 アメリカ・インディアン
元駐タイ大使 恩田 宗
オバマ大統領は就任演説で米国の偉大さと繁栄は先人の労苦の賜物だとしてtraveled across the oceans ・・settled the West・・ and plowed the hard earthと西部開拓に言及した。国民鼓舞のため歴史を美化して語っているが開拓民が耕したという堅い大地は
「掃討(クリアランス)と(&)殖民(プランテーション)」政策のもと原住民から収奪した土地だった。アメリカ・インディアン史はヴァージニア植民地に対するポーハタン族の蜂起と衰亡に始まりウーンデッド・ニーでのスー族虐殺(明治23年)に至る哀れで悲惨な話の連続である。
米国への移民は1840年代から急増し第一次大戦までに3,000万人を数えた。西部開拓が本格化し米国の天命(マニフェスト・デスティニー)だと高唱された。1848年カルフォルニアが併合され金鉱が発見されると開拓農民や金・毛皮目的の人間が大挙して西部に押し寄せた。インディアン部族の多くは採取狩猟の生活で小集団に分かれ広い領域を移動していた。集団毎に複数の指導者がいてコンセンサスでものを決めたので侵入者への対応では意見が分裂し全体として力を合わせた行動が出来なかった。過激派は侵入者への襲撃や騎兵隊との戦闘で数を減らし穏健派は妥協して奥地に退いた。
炸裂弾砲装備のペリー艦隊による日本遠征はそんな時期に企画された。太平洋に伸びる経済権益確保のため膨大な予算を組んでの国家的大事業だった。創刊直後のNYタイムズは「日本には鎖国の壁の中に宝物を隠匿する権利はない・・アメリカの様な国が・・世界の夜明けを日本に理解させることはむしろ義務」であると論じた。ペリーは石炭の節約と攻撃されない限り発砲するなとの命令を受けていたが何としてでも日本をこじ開けて帰りたかった。日本が自重して要求を受け入れたのは賢明だった。
所謂インディアン戦争は明治初期の1870年代がピークだった。連発銃と輸送通信網で強化された米陸軍との戦力差は大きくなる一方だった。加えて毛皮ハンターがインディアンの生活を支えていたバファローを乱獲し尽した。インディアンは戦いに疲れ飢餓で苦しみ米国政府の支援のある保留地に囲い込まれた。
米国の現領域内にいた原住民の当初の人口は100万とも200万ともいわれるが20世紀初頭には24万に減ってしまった。現在は200万に回復しその約四割は補助金付の保留地(280箇所)やその周辺で生活している。
なおチェロキー族は広かった生活領域を譲る条約を次々と結ばされ合衆国に迎合し文明開化(農民化し洋服を着用し宣教師を受け入れ憲法を制定し新聞を発行)を進めたが結局他部族と同様西部の荒地へ強制移住させられた。不平等条約の改正が鹿鳴館的な欧化政策だけでは達成できなかったのと同じである。