森島守人のこと

森島守人のこと ―「真珠湾・リスボン・東京」のポルトガル語版出版に際して、そして外務省オールドチャイナ・サービスの戦士たちのことなど

元駐インド・中国大使 谷野 作太郎

1.はじめに

 「森島守人」と言っても、今の外務省の現役の人たちはもとよりのこと、外務省OBの方々でも、私より一世代若い方たちには、昭和の日本外交史をよほど勉強した人たちでない限り、「モリシマモリヒト?それって誰のこと?」という向きが大部分でしょう。

 森島守人。モリヒトでなくモリト。明治28年生まれ。大正8年、外務省に入省、1928年、在奉天総領事館首席領事に任ぜられたが、その折、満洲事変(1931年)が勃発、最前線でこれの処理に当たった。その後、在ハルピン総領事を経て、1936年、本省の東亜局長(戦後の呼び名でいえば、アジア局長というところか)に就任、そして、その後再度、海外勤務となり、北京、上海の大使館で参事官を勤め(この時、いわゆる日華事変が起る)、次いで1939年在米大使館参事官、41年在ニューヨーク総領事に転出。在ニューヨーク総領事時代、日米開戦となり、日本へ引き揚げということになったものの、帰国の途次、在ポルトガル駐公使(当時の在ポルトガルの日本公館は「公使館」)に任命され、そのまま、リスボンへ。その後46年4月までの間、大戦中も中立国の立場をとり続けたポルトガル(リスボン)で、そのような中立維持の糸が切れないよう努めるかたわら、当時の欧州情勢について、本省に報告を寄せる仕事に従事していました。

 その森島は、戦後、退官して後、社会党(当時)より国政選挙に出て、衆議院議員を3期勤めました。議員の間は、社会党国際事務局長、外交部長、政策審議会外交部長などの役職にあり、ひき続き外務省とつながりを持つことになるわけですが、当時の外務省としては、国会での論戦など、手ごわい(もっとはっきり言えば、”いやな”)相手だったようです。

 以上、モリシマ、モリシマと呼びすてにしながら森島守人の経歴について、長々と述べて来ましたが、実は(突然、個人ごとになって恐縮ですが)この森島は家内の母方の祖父に当たります。本人は、私たちの結婚後、わずか2年で亡くなりましたので、私には、晩年自宅で猫を愛でる好々爺然とした森島の姿しか記憶にありません。現役時代は、大変な酒豪だったという話も伝わっていますが、晩年、私と酒をくみ交わすということもありませんでした。

 森島には、外務省奉職時代のことを記した「陰謀・暗殺・軍刀」「真珠湾・リスボン・東京」という二つの著書(いずれも岩波新書、復刻版あり)があり、そのうちでも前者は、日本の昭和外交史を研究される学者方の間で広く読まれていたところから、私は現役時代、往時のことについて「聞きとり」のため、森島のもとにいらっしゃる学者方を鵠沼の森島の家にお連れしたことを覚えています。もっとも、白状すると当時の私はといえば、この面(昭和初期の日本政治外交史)についての問題意識は誠に希薄で、話の内容をメモにとることもなく、供される茶菓子を口にほおばりながら、早くインタヴューが終らないかなぁ、とそればかりを考えていたように思います。後年、国会やおっかない自民党の部会などで、昭和の一時期のあの戦争、そして戦後における日本のいわゆる「戦後処理」の問題についての激しい論戦の場に度々さらされ、事務方の一員としてこれに対応するハメになりましたが、そんな折、あの時、森島の話をもっと真剣に聞いておけばよかったと大いに後悔した次第でした。

 以上、すっかり前置きが長くなってしまいましたが、その森島守人が逝ってから早や42年、その長女(八木華子元駐インドネシア大使八木正男の妻)は、今年九六歳の超高齢者ですが、今なお元気、家内と連れ立って、しばしば都内のブリッジ・クラブの他流試合に出かけています。


ニューヨーク時代の森島守人総領事(中央)

2.ポルトガル時代の森島守人

(1)森島は前述のように二つの回想録を残していますが、そのうち二冊目の「真珠湾・リスボン・東京」の方が在ポルトガル日本大使館の高川公使の紹介を経て、ポルトガルの政治家、有識者たちの注目をひくこととなり、この度これがポルトガル語に翻訳され、先般(9月)現地リスボンでささやかな出版記念の会合がありました。そこで私は老軀をおしてリスボンに赴き、この会合(ポルトガル側関係者と私が参加しての公開座談会)に出席して参りました。座談会に臨んだのは、私の外にガマ(Jaime GAMA)元外相、マセド(JORGE Braga de MACEDO(社会民主党国際関係委員長)元蔵相、高川公使、翻訳者でリスボン在住の加瀬祐子さん(東京外大ポルトガル語学科卒業、ポルトガル・日本友好協会理事)そして本書を出版した出版社の社長で、それぞれから、森島、本書についての感想、所感を述べた上で、参会者(フロアー)との間の質疑応答という形で進められました。会場には、ポルトガル初代大統領の玄孫、歴史作家、元経済副大臣といった方々の姿もありました。座談会に出席したポルトガルの方たちが口々におっしゃっていたのは

① 当時(戦時中)のポルトガルに関する資料は、公文書以外には英国人による創作程度しかない中で、森島の本著作は極めて貴重。もう一つの著作、「陰謀・暗殺・軍刀」の方も是非、ポルトガル語のものを読みたい。

② 森島公使の中小国ポルトガルへの思いがひしひしと伝わって来る

③ 原書を読み始めると止まらなくなり、一昼夜で読み上げた。時々、涙をおさえながら。原書中の昔風の日本語、固有名詞の翻訳には苦労した(加瀬祐子さん)等々。

 ②については、森島は本書の中で、当時、枢軸国側に立ち位置を置きつつも、非交戦国の立場をとっていたスペイン(フランコ將軍治下)が、「その後、独・伊の形勢不利とみるや、英米の好意を迎えるに汲々たるに至った」とし、日本についても「当初、満洲国の承認、汪清衡政権の承認等、つぎつぎと日本の要求を受けいれてくれたのに、一たん日本の旗色が悪くなると、1945年の春、フィリピン在住のスペイン人に対する暴行行為を理由として、突如、外交断絶の挙に出た」、その点、サラザール首相(Aulonio de Olibeia Salazar)は、日本軍がマカオやチモール(いずれもポルトガル領)を占領し、とくにチモールにおいてはいろいろと日本軍による乱暴な所作があったにも拘わらず、我慢して最後まで中立を守ってくれた云々と、フランコ、サラザールについて辛口、甘口両様の評価が並んでおり、その辺のところが、小国ポルトガル(人)のお隣の大国スペイン(人)に対する屈折した感情も手伝って、ポルトガルの有識者たちの心をくすぐったのではないかと思います。

 なお、ここで、公平のために若干の知ったかぶりをすれば、そのポルトガルも43年、北大西洋上のポルトガル領アゾレス群島の一島を英国側に基地として貸与するなど、ちゃんと保険をかけていました。サラザールと言えば、欧州の政治史を若干聞きかじった人たちの間では、「秘密警察を駆使して権力を維持し続けた独裁者」というイメージが強いのですが、森島はリスボンにあって、そのサラザール首相と関係を深め、とにかくポルトガルが「中立」を破って英米側につかないように奮闘したようです。ちなみに、私と共に座談会に来てくれた前出の元外相ガマ氏は若い頃、サラザール政権に投獄された人とか。しかし、彼は私にはそのことを口にすることはありませんでした。

 公使館にあって森島のひとつの仕事は、在留邦人の方たち(商社、銀行、船会社、満鉄など)を組織し調査機関を立ち上げ、英米関係の情報を収集して本省に報告することでした。今でも残っている当時の公使館の建物(昔はポルトガルの旧王家の資産。それをアメリア元王妃、ラザール首相と日本政府の間の友好関係の下、戦時中と戦後の一時期日本公使館が使用していた。そのあと他人の手に渡り、今、新しい入居者の要求で改装中)の前にたたずんでみますと、眼下に大きな入江を見渡すことができ、なるほど、そこを出入りする艦船を観察するには絶好のロケーションだったろうという思いがいたします。

 日本の公使館が当時の英米情勢の収集、分析に当たる中にあって、大使館の高川公使によれば、この調査機関は、例の米英ソの間のヤルタ密約(1945年2月、その内容のひとつにソ連の対日参戦の密約がある)の情報も入手し、これを東京に報告していたらしい。このことは、戦後、英国が公表した当時の日本公使館の報告書(すべて英国に抜かれていた)によって明らかにされている、ということです。もっとも、戦後、当時の外交文書の多くが開示される中にあって、このことについてリスボン発の日本公使館の報告は見当たりません。

 「ヤルタ密約」(ソ連参戦の密約)を当時の日本の出先機関が入手し、東京に報告するも、これを真っ先に受けとった軍部がこれをにぎりつぶした結果、政府の中で共有されるところとならなかった。このことについては、史家の間ではスウェーデンの武官府の小野寺武官の報告が有名です。内容が機微なので、夫人(小野寺百合子さん)が武官府でご自分で暗号を組み東京に送っておられたようです。しかし、小野寺武官の送る情報は東京では軍当局が握りつぶした。その後敗色濃くなる中で、45年春頃から(すなわち、ヤルタ密約のあと)日本政府は、そのソ連に米英との斡旋を頼みこむという誠にマンガチックな挙に出るわけですが、いずれにせよ、小野寺武官の無念な思いについては、小野寺百合子夫人著の「バルト海のほとりにて武官の妻の大東亜戦争」(朝日文庫)という名著に余すところなく活写をされています。

 ちなみに、小野寺夫妻の令息、小野寺龍二君は外務省で私と同期、ドイツ語、スウェーデン語を良くし登山家にして名スキーヤー、興に乗ればスイスのヨーデルを朗々と歌う才人で、私たちは彼はいずれドイツ駐在の大使になる人財と思っていたのですが、惜しいことに93年、スイスのアルプスでスキー中、事故に遭い、帰らぬ人となりました。

3.戦後の森島守人

 戦後森島は官を辞した後、前に述べたように社会党から立候補し、国会議員として3期勤めました。その間、同党の国際事務局長などを勤めるかたわら政府、与党に論戦をいどんだのは

① あのパールハーバ攻撃の対米通告の件につき、外務省の失態から、結局国際的に「だまし撃ち」という汚名を着せられる結果となった。このことについて、外務省は総括していない(注1)

② 岡崎(勝男)外交批判‥「サンフランシスコの講和会議で、吉田は向米一辺倒政策を決定して来た」、「吉田としては、〞外交は俺がやっている〝という吉田限りの信念で事に当たっているのであろう」「(その結果)外務省の吏僚中には ” さわらぬ神にたたりなし ” との考えがび漫しており、積極的に意見を出したり献策をしたりする気風が跡を絶っているとうわさされている」といった調子。これでは、当時の外務省もたまったものではなかったでしょう。ちなみに岡崎勝男外相は、外務省では4年下の後輩に当たります。

③ なお、森島は、日中国交正常化の早期実現にも強い意欲を持っていたらしく、私の手もとには周恩来総理と撮った写真数葉が残っています。

 そんな森島が(私と家内の婚約のことを知るに及び)外務省に急に優しくなったという事を当時の私の上司、後宮(虎郎)アジア局長より聞かされました。「森島さんは、近頃、ボクたちに会うとニコニコ顔でねぇ」と。その後宮局長は私と家内との縁結びに大変熱心だった方、さては!と。(笑)

 ここで話題は再びポルトガルに戻って……かつて大航海時代(十五世紀|十六世紀)にはヴァスコ・ダ・ガマを輩出し、スペインと世界の海で覇を競ったポルトガル、しかし、今ではイベリア半島の片隅にひっそりと身を寄せ、国際的にもあまり話題にされることはありません。でも、その国民性はひかえ目なところがどこか日本人に似ていますし、海の幸をそろえた各種料理も大変美味。天にいただく空の〞青さ〝は半端なものでなく、夜のとばりが下りれば酒場からあのアマリア・ロドリゲスで有名なファド(FADO ポルトガルの民族歌謡、人生の哀愁を歌ったものが多い)の歌声が流れる。私はそんなポルトガルが大好きになりました。ヨーロッパに足を向けられる向きは、是非時間をとって、2~3日ポルトガル旅行をおすすめします。

4.昔はこんな外交官も居た

(1)森島の戦前、戦時中の外務省奉職時代の仕事とはといえばその多くは、日本の軍部の人たちとの闘いであったように思います。もっとも、その多くの局面において妥協を重ね、結局敗れ去ってゆくのですが。

 奉天で首席領事の任にあって、関東軍との折衝においても正面に立していたようですが、そんなことから、満洲事変勃発の時も、(中国の方は、何とか収めたがっているという電報を東京に送りながら、事を収める方向で中国側と話し合っていたその当時の総領事館に関東軍の將校たちが押しかけて来て)「つまらぬ電報を打つな!」(それはそうでしょう。戦線を拡大しようと目論む関東軍としては収められては困るのですから)「総領事館の電信室をぶっこわす!」とおどし上げ、そのうちの一人は森島に対して抜刀のかまえすら見せたとか。ちなみにこのシーンは戦後、映画(山本薩夫監督「戦争と人間」)にもなっていますが、若き日の森島を演ずるのは、石原裕次郎。しかし、ホンモノは、勿論、裕ちゃんほど格好良くはありません(笑)。当時、そのようなことが時々あったらしく、その側に居た森島の長女(八木華子、家内の母親)は今でも、「あの当時の軍人さんたちは、本当にこわかった」と申しております。

(2)話は変わりますが、私たちの先輩の方たちの中には、そのような軍部に押し切られてゆく政府の上層部に対しこれに同意せず、上司に辞表をたたきつけたサムライ方もいたようです。そのうちの一人は、広田弘毅外相の下で東亜局長の任にあった石射猪太郎氏。在任中、日中関係の局面打開に尽力、38年、その年の盧溝橋事件を受け、時の宇垣外相に提出された意見書、「今後ノ事変対策ニ付テノ考察」は、宇垣外相の日中和平構想の骨子となり、その点においても、日中外交史に名をとどめた方です(もっとも「日中和平構想の方は、その後の宇垣外相の辞任により実らず)。

 この石射局長は、盧溝橋事件が起こり、これに乗じて陸軍が進めんとする派兵案(五相会議で承認)について、閣議で何の議論もないまま、広田外相も賛成したということを聞き及び、上村伸一東亜局第一課長と共に広田外相のところに赴き、「あれ程申し上げていたじゃないですか!」と二人で辞表をたたきつけた(結局、受理されず)とか。ちなみに、広田弘毅氏は1906年外務省入省、石射猪太郎氏は1915年の入省、広田外相は、外務省では九年上の先輩に当たります。石射猪太郎氏は「外交官の一生」(中央文庫)という回想録を残しておられますが、この本は数ある外交官の回想録の中でも傑作として大変評価の高い本です。ちなみに、この本では、日中戦争が進む中、国威発揚、暴支膺懲と国論を煽り立てる当時の日本のメディアのことも紹介されています。数年前、尖閣の件で日本のメディアが反中一色に染め上がった時、ちょう度この「外交官の一生」を読んだ外務省の某先輩が、「今の日本は、昔とちっとも変わっていないねぇ」とつぶやいていたのを記憶しています。昨今、「官邸一強」の下に多くの幹部の方々がこれにひれ伏し、うっかりモノも言えない感のある霞ヶ関の役所の方たちに是非読んでいただきたい本です。(注2)



(注1)政府(外務省)は、この問題について、「対外応答要領」(すなわち、聞かれたら、こう答える)という形で、統一的な見解をまとめ、一応、ケリをつけたということになっている。但し、本件文書自体いまだ「取扱注意」との押印があり、内容の紹介はさし控えざるをえない。

 なお、この問題については、昭和天皇より東条首相に対して「最後通告の手交前に攻撃開始が行らぬよう気をつけよ」とのご注意があり、連合艦隊の山本五十六司令官も「無通告攻撃には絶対反対」と表明していたという話が戦後伝わっているが、他方、最近の研究書(「外務官僚たちの太平洋戦争」の佐藤元英著NHKブックス2005)は新たに発掘した資料にもとづくとしてあの世に知られた米国への最後通告、「帝国政府の対米通牒覚書」は国際法的にみても「開戦通告」としてたえるものではない(ちなみに、あの時、日本陸軍が、英領マレーでとった攻撃開始は、無通告開戦)。天皇陛下の宣戦の詔勅(これこそが、しっかり形をととのえた開戦宣言)が発されたのは、対米開戦のあと、しかのみならず、当時の日本政府内では「無通告開戦の自存自衛のための戦争」という主張が軍の中枢に根強くあり、これに外務省のいわゆる革新派の面々が加担し、東郷外相もこれに抗しえず事が進んだ、としている。

 ちなみに、ほぼ同じことは、井口武夫氏(元駐ニュージーランド大使)の「開戦神話対米通告を遅らせたのは誰か」(中公文庫)でも、一次資料を詳細に渉猟した結果をふまえ述べられている。なお井口武夫氏は、開戦当時、在米日本大使館で政務担当参事官の任にあった井口貞夫氏の令息。

 いずれにせよ、このようなその後の研究、探索をふまえれば、あの「対米通告の遅延」につき、当時の在米日本大使館にそのすべての責めを負わせるのは、事実関係にもとづかない歪曲された話であるように思われる。

(注2)外務省先輩の大野勝己氏(元次官、駐英大使)はその著書(「霞が関外交」その伝統と人々 ―日本経済新聞社)で次のように述べている。

 「何か一つ大きな外交問題が起こると、在外の大使、公使は自分が直接責任の衝に当たる立場にいない場合でも、……政府はかくの如く処理すべきであるという長文の意見を、高い電信料を意に介せず外務大臣へ暗号電報で上申したものである。……「在外使臣」と呼ばれる大使、公使は各自が任国で得た情報や観測に基づき自己の対策意見を東京へ申し送る用意を常に怠らないというのが志の高い外交官の心がけであることを教えられたのであった。満州事変から日華事変にかけて、いかに多くの憂国の意見電報が主諸外国に駐在する大公使から外務大臣に寄せられたことか。」

 また、大野氏は同じ著書の中でこうも述べている。「外務本省としても、本省の訓令を小心翼々として任国へ取次ぐ窓口的なことだけに甘んずるタイプの外交官を重宝がるというようなことは、かりそめにもあってはならぬと思う。また外務大臣の重責を担った人は、出先の公館長から上申して来る情勢判断や、任国の要人との会談の報告や、各種の意見具申などを見て、その在外公館長の名前を見れば顔が眼前に浮かんで来る、という位になっていれば名外相になれると思う。また外務大臣たるものは、諸外国の情勢の大体は頭に入っていて、あそこで働いているあの大使がこのように言ってよこすのだから、これは余程のことだというふうに直感的に判断や評価ができるぐらいでなければいけない。そうでなければ、外務大臣の情が出先の者にうつらないのだ。」

 生来、なまけ者の私も現役の大使時代、何回か「本使意見具申」をしたためるため筆をとったときがあるが(ある時は、このことで時の総理大臣のお怒りをかい、クビになりかけたが、本省の後輩たちが、何とか、とりなしてくれた)、最近そのような「本使意見具申」は、ほとんど見かけなくなったとか、本当とすれば残念なことである。