カメルーンの英語圏問題とその歴史的経緯


駐カメルーン大使 岡村 邦夫

1.はじめに

 カメルーンはアフリカ諸国、特に中部アフリカ地域の中では、長期政権で比較的安定した国として知られている。1982年、初代アヒジョ大統領の辞任で、当時のビヤ首相への政権交代が行われたが、以来6回の大統領選挙でビヤ大統領が再選されており、独立57年の間で二人の大統領しか経験していない。現ビヤ大統領はまもなく在任35年を迎えるが、この間様々な困難や危機を乗り越え、近年は長期安定政権として一定の経済成長と中部アフリカ地域の安定に貢献してきたとの評価を受けている。現行憲法では任期は7年であり、来年2018年は大統領選挙の年となる。上院・下院とも圧倒的多数を占める与党カメルーン人民・民主連合(RDPC)の再選出馬の強い要望に、大統領自身はこれまで否定もしないがはっきりと出馬も表明しない状況で、現状他の有力候補がない中で、出れば勝利というのが大方の予想である。現在84歳、近年健康状態の不安についての噂がないわけではないが、年に数度の重要な機会での長時間の演説や質問への受け答えは依然しっかりしており、来年秋と言われる選挙にも出るとの見方が有力である。

 そのような年齢以外に不安要因がないとされていた中、昨年後半に始まったカメルーン英語圏での騒擾は、まもなく1年を迎えるが未だ沈静化が進まず、逆にここ最近は深刻化の様相を呈しつつあり、フランスの雑誌などには「長期安定政権に対する黄信号が灯った」との論評もある。本稿では、現下の問題の概要とその歴史的経緯をまとめてみることとしたい。なお、本稿執筆の2017年9月末現在未だ進行中の話であり、その後の進展がある点、予めご了解いただきたい。

2.カメルーン英語圏の昨年秋以来の動き

 カメルーンは人口約2,400万人、行政区画として10州あるが、国の西部でナイジェリアとの国境を接する部分のうち南部にある北西州と南西州の2州、人口では約20%、が英語圏である。当然ながら仏語圏としてフランコフォニーのメンバーであると共に、1995年からコモン・ウェルスのメンバーでもある。

 その英語圏2州では、これまでも仏語圏に比べ冷遇されているとの不満が消えることなく続いていた。石油開発は南西州沖合で主に行われているが、最も重要な国策会社SNH(国営石油公社)幹部はこれまで仏語圏出身者に占められてきたとか、重要な輸出産品であるバナナ・天然ゴム・オイル椰子の大規模プランテーションの多くも英語圏にあるのに、国の道路などのインフラ公共投資が遅れている、といった点である。

 中でも、中央で一括採用され全国に配置される学校教員は、給与が良く人気の職種だが、英語圏からの採用が少なく、その結果英語圏の学校に英語をしゃべらない教員が多く配置されている現状への不満は、数年前からその是正を求める声が高まっていた。2016年10月、英語圏の教員組合が無期限ストの呼びかけを行うと、程なく法制度でも仏語圏優位の扱いに不満を募らせていた英語圏の弁護士団体も呼応、その後英語圏の大学、やがては一般市民もデモに参加するようにこの動きは拡がっていく。これに対し政府は、デモの鎮圧を第一に行うと共に、教員組合および弁護士団体と対話を行うが、政府から満足のいく改善策が提示されないこともあり、一向に沈静化せず、学校のほとんどは閉鎖された状態が続き、一方政府は治安維持要員を増強、次第に衝突が先鋭化してしまう。

 2017年1月17日、政府は英語圏2州のインターネット接続を切断、問題は国際的注目を集めるに至る。(4月20日に接続再開。)また政府は、「二国語併用・文化多様性推進のための委員会」を各界の有識者を指名して設置すること、最高裁および行政官養成学校でコモンローの部門を創設することを発表するも、デモは沈静化せず、海外のディアスポラの反政府グループと結びつく形で、連邦制の復活、強硬派はさらには英語圏の独立を求める政治運動に発展してしまう。特に活動家が多くいるプレトリア・ブリュッセル・オタワでは、各々のカメルーン大使館への強烈な抗議行動が行われた。

 9月4日からの新学期を前に緊張が高まる中、8月30日デモ参加等で逮捕されていた活動家の半数強を釈放するが、沈静化の効果は少なく、英語圏の主要都市では週の前半のゼネストが継続している。現在、対象は仏語圏支配の象徴とされる機関に未だ限られてはいるが、先鋭化した活動家は手製爆弾を使った示威行動にも手を付けており、一層危惧される状況となっている。

3.歴史的経緯

 この問題を正しく理解するためには、歴史を遡ることが必要となる。以下、関連の部分を見てみたい。

 19世紀終盤、ギニア湾岸のドゥアラ地域の土侯達は、接触してきたドイツの貿易商人と協定を締結、ドイツはそれを元に抵抗を受けながらも内陸部も掌握、その保護領とするに至り、農産物のプランテーションを展開、インフラを整備しながらも、所謂収奪型植民地経営を行った。

 1916年、第一次世界大戦途中、独領カメルーンは近隣で展開の仏軍・英軍に侵攻され、1922年国際連盟の委任統治領として、4/5が仏領カメルーン、1/5が英領カメルーンとなった。仏領はいわゆるフランス同化政策を取りつつ、ドイツの行った植民地経営を引き継ぐものであった。一方、英領はこちらも他の地域と同様の英国式植民地経営(間接統治)が行われ、その南部はプロテスタントで北部はイスラム教徒の違いもあり、当時南北に二分されていた英領ナイジェリアにそれぞれ分割して編入された。英領カメルーンの南北に長い領域は、西部高地で分断され、この地形上の制約から、その南北間の結びつきよりも、それぞれナイジェリア東部の南北との結びつきが強いものであった。

 1946年、国際連合の設立と共にそれぞれ信託統治領化、仏領カメルーンではまもなく信託統治領代議員会が設立、組合活動も始まり、それを起源として1948年には政党も設立された。その政党は活動を活発化し、1955年には英領と統合した形での独立を目指すも、徹底的弾圧を受け、その存在も非合法化された。一方、仏植民地政府も自治権と立法議会の設立を認め、人心の懐柔を試みるが、植民地独立の機運を止めることはかなわなかった。

 1960年1月、仏領カメルーン独立。一方、英領カメルーンはナイジェリアとカメルーンのいずれに帰属するかで意見が分かれ、1961年2月に住民投票を実施。南は70%がカメルーン、北は60%がナイジェリアという結果となり、統合交渉がスムーズに進んだ北は同年5月31日にナイジェリアに統合、交渉に時間を要した南は同年10月1日にカメルーンに統合し連邦共和国を形成した。

 初代大統領はアマドゥ・アヒジョ(仏語圏、イスラム教徒、現北部州出身)、副大統領はジョン・ング・フォンチャ(英語圏出身なるも、出自は仏語圏の西部州のバミレケ族)。連邦議会、それぞれの地域議会二つ、伝統的首長議会の計4議会が設立され、ヤウンデを首都、仏・英二カ国語を公用語とし、国旗にも二つの星があった。連邦はそれぞれ首相と国務大臣を擁し、カメルーン西部連邦の首都はブエア(現南西州の州都)に置かれた。但し、憲法は既に1961年9月1日に公布されていたものが使われ、やや中央集権で仏語圏有利な出発となった。その後も、初代大統領アヒジョは中央集権化を強引に進め、政党の統合一本化も行ったため、英語圏のみならず元仏領カメルーン南部のキリスト教徒の反感が高まった。

 1972年、アヒジョ大統領は連邦制廃止の国民投票を実施、国名を「カメルーン連合共和国」とし、国旗の星も一つとした。連邦制と権力の分配を前提としてカメルーンへ帰属した英語圏の人々は、当然ながらこの動きを中央集権化の名の下英語圏の地位低下と受け止め、裏切られたと感じる人が多かった。

 1982年、アヒジョ大統領は首相であったポール・ビヤ(南部州出身、カトリック教徒)に地位を譲ったが、新大統領も仏語圏優位の中央集権化を推し進めた。例えば、83年のバカロレア改革では、英語圏のバカロレアでは仏語が必修とされたのに対し、仏語圏では英語は必修ではないとされ、英語圏の学生達は、「カメルーンは二つの文化を持つ国で、仏語圏への同化政策に反対」のプラカードを掲げストを行った。

 1984年2月、ビヤ大統領は単なる政令で、国名から「連合」の文字を外し、「カメルーン共和国」とした。当然ながら、英語圏の人々はこれに猛反発、連邦制回帰を要求。この動きと呼応する形で4月には前大統領も与したクーデター未遂事件が勃発。(この後前大統領は国外退去を余儀なくされ、89年亡命先のダカールで死去。)

 英語圏の冷遇政策は続くが、86年以降の経済悪化とそれに起因する社会不安定化を受け、90年暮には政党結成、集会とデモ等の自由が認められ、92年に初の多党選挙が実施された。また96年には「地方分権の統一国家」を旨とした憲法の改正が行われるに至り、それ以降この方向で政策が行われることとなったが、今回の英語圏問題は、その実現の遅れへの苛立ちから起きたものと見ることができるかもしれない。

4.終わりに

 来年の大統領選挙まで1年と言われる今、この英語圏問題は重要なファクターとなりつつある。これまで述べたように、非常に歴史的経緯のある話で、問題の解決は容易ではない。根本的解決は難しいとしても、このまま放置もできず、何とか問題の緩和を図り、とりあえずの幕引きとしたいたいというのが、現体制の意向であろう。クーデター未遂、経済苦境、周辺国からの多くの難民流入、ボコ・ハラムのテロ攻撃、自然大災害、大事故等の様々な困難や危機を乗り越えてきた(越えつつある)ビヤ大統領、その終盤に於いて迎えたこの難所をどのように解決していくのであろうか。

(本稿は、報道等を基に、執筆者の個人的見解に基づき執筆されたものである。)

現在の国旗
旧カメルーン連邦共和国の国旗

出典:http://d-maps.com/carte.php?num_car=4586&lang=en
本地図は右地図を基に執筆者が加工したものである。