九州・沖縄サミット異聞 - 沖縄決定劇の舞台裏

東京外国語大学教授 山田 文比古

 今から20年前の1997年夏のある日。沖縄県庁に出向していた私は、当時の吉元副知事に呼ばれ、こう言われた。

「あんたは、サミットに詳しそうだな。県として、沖縄へのサミット誘致を考えているので、計画を考えてくれ。」

 沖縄でサミットを、というアイディアは、以前から県内の経済界と政界の一部にあり、県外の有識者の中にもそれを支持する声があった。半年程前から、沖縄県庁で、知事公室参事として、米軍基地問題、沖縄振興策だけでなく、国際会議の誘致など県の国際化の仕事にも携わっていた私は、当初、沖縄でのサミットには懐疑的で、県庁に着任して暫くは静観を決め込んでいた。

 だが、県内での議論が机上の空論の域を出ないことに懸念を覚え、県の幹部に、サミットとはどういう会議で、それを開催するとはどういうことなのか(特に地元側にとって)について、きちんと知ってもらう必要があると考えるようになった。そこで、自分のサミットに携わった経験から、サミットの概要と地元側の必要事項(特に施設やロジ面)等を、10ページ弱のペーパーにまとめ、県の幹部に提出した。それが吉元副知事の目に止まり、冒頭のような次第となったのだ。

 県は早速2人のスタッフを付けてくれた。彼らとともに、2週間程かけて、県内の会議場や公共施設、ホテル、空港等を詳しく調査し、その結果を踏まえて、具体的な沖縄サミット開催計画案をまとめた。それは、沖縄県から政府あてに提出される正式なサミット誘致要望書に盛り込まれることとなった。

 もとより、施設・ロジ面、特に運輸・警備の面で問題がある(他の候補地(福岡、宮崎、大阪等)と比べ劣る)ことは十分承知していた。しかし、その気になりさえすれば、できないことはない、というのが、この調査を踏まえた、当時の県側の認識だった。もちろん、まずは県側として必要な施設整備(後の「万国津梁館」の建設など)を行い、全面的な実施・協力体制を取らなければならない。そのため、県内関係機関の組織化(県知事を本部長とするサミット誘致県民会議の設置)を行うことになった。

 ただ、いくら県側がそう認識し、頑張っても、一番の当事者である政府が「その気」になってくれない限り、県の計画案は絵に描いた餅に過ぎない。そこで問題は、いかにして政府側に「その気」になってもらうかだった。

 これについては、実務レベルと政治レベルを分けて考えることとした。実務レベルでは外務省や警察庁など、政治レベルでは官邸をターゲットとした。前者はいわば予選、後者は決勝戦。予選はかなり厳しいが、それさえ何とかくぐり抜ければ、決勝戦の政治レベルでは、沖縄への配慮が働く余地があり、逆転の可能性がある。当時、橋本内閣の下で、大胆な沖縄振興策が進められており、その可能性も十分考えられた。

 かくして、沖縄県サミット誘致県民会議の下で、実務レベルでの体制を整え、受け皿としての準備を進める一方で、政治レベルでの働きかけを強めようとしていた矢先に、大田知事による、普天間基地の県内移設受け入れ拒否という事態を迎えた。この結果、県と国との関係が冷却化し、サミットなどという悠長な雰囲気は吹き飛んでしまった。大田知事も、「橋本総理はもうサミットを沖縄でやろうなどとは考えないだろうから、誘致などしても仕方がない」と達観していた。

 それでも、県として誘致の旗を降ろさなかったのは、実務レベルでの体制整備や意識改革が進み、県内の一部に、サミットを契機に、観光・コンベンション産業の高度化、県全体の国際化を図ろうとの機運が盛り上がっていたことが大きい。政治レベルで逆転が期待できないから、予選を諦めようというのでは、いくら何でも情けない。あくまでもサミットを目指し、そのための自助努力は続けていこうという点で、関係者が踏みとどまったのだ。

 このことは、その後、知事選の結果、大田県政に代わる稲嶺県政が誕生したことで、大きな意味を持つことになった。政府の側も、沖縄に強い愛着をもつ小渕総理に代わっていた。国と県との協力関係は、小渕-稲嶺ラインで大きく進展すると期待された。サミットも然り。野中官房長官は、知事選の公約にサミット誘致を掲げていた稲嶺新知事に対し、理解を示す発言を行っていた。

 しかし、その時点で、沖縄はいわば首の皮一枚で辛うじて候補の一つに残っていたものの、実務レベルの予選では、大変厳しい状況に置かれていた。そこで稲嶺知事の下で、体制の強化が図られ、誘致計画も練り直された。県庁のスタッフは私を含めて7人に増加、県民会議も参加団体を増やし、関係部会を強化・拡充した。元の県の開催計画で弱点とされていたプレスセンターが遠いという問題を解消するため、名護市の体育館等を供用するというふうに計画を変更した。薄氷を踏む思いだったが、こうした沖縄の計画変更については、外務省側から、稲嶺知事の新提案としてなら受け入れと検討が可能と回答があった時には、ほっとした。

 ところで、何とか予選で落とされないようにできたとしても、決勝戦の政治レベルではどうかということは、実は最後まで確信がもてなかった。政治レベルでは、サミット開催が沖縄と本土との関係にどういう影響を及ぼすか、ということが最大のポイントだったと思う。サミット開催で、沖縄が活気づき、沖縄と日本との一体感が強まることになれば、それは沖縄開催に伴うリスクを上回るメリットとなる、との内政的考慮である。サミットを純粋な国際政治の場としての国際会議と捉える立場からは、邪道だと言われかねないが、これまで他国の例でも、サミット開催地決定に当たり、各国なりの内政的考慮が働いてきたことは否定できない。

 逆に、政治レベルのマイナス要因としては、県内の反基地世論の存在、それに伴う反米感情と反米運動への懸念などが想定された。当然それは、対米関係に直結することなので、米国の意向という外交上の要素も重要となってこよう。

 いずれにせよ、政治レベルでの官邸の決断をバックアップするために、何が必要か、有効かということを考えた時に、それは沖縄県民のサミット開催を求める意思(コンセンサス)と意欲(熱意)を示すことしかない。沖縄に反基地感情はあっても、反米感情は殆どない。サミットに関しては、基地問題ゆえにサミットを台無しにするような無分別な行動を採る県民は殆どいない。むしろ多くの県民が歓迎し、その成功の為に一体となり最大限の協力を惜しまない。サミットを盛り上げることで、沖縄が元気になり、自信を強めて、さらに大きく発展していくだろうし、県民はそれを熱望している、というメッセージを送ることが重要だと考えた。

 そこで、それをいかにして形にして示すか、ということで、色々なことを行った。政府への誘致活動では、保革の枠を超えた県選出国会議員・県会議員団、市町村長・議長、県内経済団体・関連業界団体等にも一緒に参加してもらい、全県挙げての要望であることを印象付けた。実際、県民会議の拡充・強化の結果、545の県内団体が参加する全県体制が実現していた。県民世論の面でも、ロゴや標語「世界の目を沖縄へ、沖縄の心を世界へ」等による県民啓発運動の結果、大きな盛り上がりが起きた。県内のメディアも好意的で、世論を盛り上げた。

 こうした県民の熱意の強さを最も効果的に示し得たのは、署名活動だった。県民に誘致嘆願書への署名を募ったのだ。当初はどれ程集まるか分からなかったので賭けのようなものだったが、結局20万を超える署名が集まった。その現物は、官邸への最後の要請行動の際に、小渕総理と野中官房長官に提出した。しかし、この時の総理と官房長官の反応は、当惑しているように見えた。

 県外では、有力な財界人や言論人等が沖縄開催を後押した。経済4団体と沖縄懇話会は、「稲嶺知事と懇談する会」と銘打ち、県と共催の形で、沖縄サミット・キャンペーンのレセプションを都内のホテルで開催した。これには多くの沖縄ファンの有力者が参加し、小渕総理や野中官房長官まで立ち寄り参加することになった。両首脳の面前で、錚々たる出席者たちから口々に沖縄開催の意義が語られた。また、その日に合わせて、読売新聞に「拝啓、内閣総理大臣小渕恵三殿」というタイトルで、沖縄開催を求める県の新聞広告を掲載したことも反響を呼んだ(余談だが、この広告記事は、後日、この年の日本新聞協会の新聞広告賞優秀賞を受賞した)。

 こうして県内、国内で沖縄サミットに向けて、大きな盛り上がりが起き、多くの国民も期待を寄せた。主要メディアも沖縄開催に好意的だった。官邸も恐らくそうではないかということが一部では予想されていた。

 しかし直前まで、官邸や外務省から、県側にそうした意向が伝えられたことは、少なくとも私の知る限りではない。むしろ、決定の1週間前に読売新聞が、小渕総理は福岡で開催する意向を固めたとの観測記事を出した時には、やはりだめかと諦めた。また前日に、稲嶺知事のところで、翌日の決定発表を受けて出す知事コメントの文案の調整をした時には、①首脳会合が沖縄で開催される場合、②外相会合または蔵相会合の場合、③何らかの準備会合または閣僚会合の場合、④全く何も沖縄では開催されない場合、の4通りの文案を用意したが、②であれば上出来、①は無理だろうとして、あまり身が入らなかった。

 そして迎えた運命の日、1999年4月29日、野中官房長官が記者会見で首脳会合の沖縄開催を発表した。その直前には、稲嶺知事に官邸から正式の連絡があった。さらに官邸よりの内々の連絡では、発表文で述べられた沖縄選定の理由のうち、20万人の署名に示された「県民の熱い期待に小渕総理が答え」という部分は、野中官房長官の指示により敢えて書き加えられたとのこと。「沖縄の長い歴史の痛み」への言及も、小渕総理の思いが込もっていた。

 「久々に政治を見た」などとメディアで評された沖縄サミット決定劇の舞台裏の一齣である。今となっては、古き良き時代の淡い思い出に過ぎなくなってしまったが…。