「人間の安全保障」と日本外交


創価大学・客員教授 元UNDP東京事務所所長 佐藤 秀雄

 はじめに

 「人間の安全保障」の概念は、日本外交における重要政策として定着しており、歴代総理の演説やG7サミット・国連関係文書には必ずと言ってよいほど使用されている。

 「人間の安全保障」は、1994年のUNDP 『人間開発報告書』に登場して以来、20年以上経つが、2015年に採択された2030年までの国連SDGの基本理念となっている「誰も置き去りにしない世界」(No one Left Behind)も「人間の安全保障」の理念に立脚していることにも見られる通り、大きな思想的基盤として輝きを増している。   

 『人間開発報告書』の日本語訳に、私はUNDP東京連絡事務所所長として、深く関与したこともあって、本稿では、この概念登場の歴史的背景、定義を巡る議論、日本外交における概念導入の経緯、とりわけ政治的リーダーシップを発揮された小渕総理とこれを支えた外務省内での動き、さらに、この理念がもつ射程と展望について紹介したい。 

 「人間の安全保障」登場の歴史的背景

 UNDPがこの理念を提示した1994年は、1989年11月のベルリンの壁崩壊に始まる冷戦構造の崩壊が明らかになって数年が経過し、翌年国連の「社会サミット」開催が予定されていた時点であった。

 この頃、国際秩序は大きく変動しており、ソ連は15の共和国に分裂し、ユーゴスラヴィアも分裂・解体過程に入っていた。東西ドイツが統一され、東欧諸国は一挙に民主化が進み欧州全体は大きな変動過程に入っていた。

 また、冷戦崩壊の虚をついてひき起こされた1990年の湾岸戦争は一旦決着がついたもののフセイン政権が温存されたことにより、2003年のアメリカによるイラク侵攻にいたる危機が内蔵されたままであった。

 アジアでは、1989年6月の中国・天安門事件の余韻がくすぶっており、経済的にも、1997年のアジア通貨危機を予感させる状態にあった。

 冷戦構造の崩壊は、このような国際関係の変動にとどまらず、あたかもパンドラの箱が開いたように、それまで閉じ込められていた各国内部の民族・宗教紛争がバルカン半島、中東、アフリカで一挙に噴出し、大量難民の発生、テロ・過激主義を生み出したのみならず、貧困・感染症、地球温暖化問題など一国では対処不能である地球規模問題群の存在が顕在化した時代であった。

 「人間の安全保障」は、このように一挙に噴出してきた人類的危機にいかに対処すべきかを模索してきた国連が、危機にさらされているのは「人間それ自身」であり、それまでの国家の安全保障中心の安全保障観では、到底対処できないとして、安全保障観の根本的転換を図るべく、「人間に対する脅威からの解放」を目的とする新たな理念として提示したものであった。

 この発想の設計者は、パキスタン出身の著名な経済学者であり、UNDP特別顧問であったマブーブル・ウル・ハクとノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センであり、二人の共同作業から生み出されたものであった。

 二人の発想は、1941年にアメリカ・ルーズベルト大統領が発表した「四つの自由」のうちの「欠乏からの自由」(Freedom from Want)と「恐怖からの自由」(Freedom from Fear)を統合的に捉えなおし、新たな安全保障の理念として提示したものである。

 定義・概念を巡る議論

 現在では、「人間の安全保障」とは、「人間の生存(Survival)、尊厳(Dignity)、生活(Livelihood)のために必要な諸条件を満たし、「人間の生(Vital Core)にとってのあらゆる脅威を除去する取り組み」(後述の緒方・セン報告書)と理解されている。

あるいは、もっと端的に「人間の生存、尊厳、生活を脅かすあらゆる種類の脅威を包括的に捉え、これに対する取り組みを強化するという考え方」(1998年、小渕総理のハノイ演説)の方がわかりやすい。

当初、UNDPが提唱した「人間の安全保障」は、「国家の安全保障」を包含する包括的・普遍的概念であったが、先進国のみならず途上国からも疑念・懸念が示されたため当初のアイディアは修正を迫られた。

先進国、特に欧州からはすでに基本的人権の概念が定着しており、屋上屋を重ねる必要はないとの批判が展開された。途上国からは、この概念、特に「保護する責任」を盾に国際社会の介入が正当化される恐れがあるとの強い反発が示された。

 こうして国連を舞台に激しい議論が展開され、結局、安全保障観の根本的変更には至らなかったが、「人間の安全保障」の有用性は認めつつ、一応、国家の安全保障」とは切り離すこととし、同時にこの概念を盾に介入することはしない旨の妥協が成立した。

 すなわち、今のところ、「人間の安全保障」と「国家の安全保障」とは、相互補完・相互依存関係にあり、人間の安全保障」無くして、国家の安全保障」は無く、「国家の安全保障」無くして「人間の安全保障」も無いと理解することで落ち着いている。

 こうした議論の過程で、一貫してリードしたのはカナダと日本であった。

 カナダは外交政策の一環として「人間の安全保障」を採用し、対人地雷全面禁止条約、国際刑事裁判所の創設への動きを示したことにより、ノルウェー、タイなどがネットワークを形成したことに見られるように終始積極的にリーダーシップを発揮した。

 日本は、1998年に「人間の安全保障」を外交政策に取り入れ、二国間ODAのみならず、国連を舞台にこの概念の重要性を推進したことにより、次第に国際社会で市民権を得るに至った。

 因みに、2000年の国連ミレニアムサミットにおける事務総長の報告書『国連の役割』の中では、このような議論を背景に、「人間の安全保障」そのものの語は、中国、インド、ブラジルなどの抵抗により、使用することはできなかったが、この概念を構成する「欠乏からの自由」と「恐怖からの自由」の2つの自由を国連として取り組むべき優先課題として明示された。 

 日本は、このミレニアムサミットで、「人間の安全保障委員会」の設置と「人間の安全保障基金」の創設を提案した。前者は2001年に緒方貞子とアマルティア・センを共同議長として発足し、5回の公式会合を経て2003年に最終報告書を発表した。後者は、UNDPに創設されて、人間の安全保障」関連プロジェクトとして展開されている。

 日本外交における「人間の安全保障」導入の経緯と展開

 前述の通り、日本外交は、「人間の安全保障」概念の普及・定着に大きな影響を与えてきたが、決定的なリーダーシップを発揮されたのは、小渕総理であった。

 小渕総理は、外務大臣であった1998年5月、シンガポールにおけるアジア経済危機に関する演説で「人間の安全保障」の理念を日本外交に取り込むことを初めて公式に表明した。その後、総理に就任した小渕総理は、東京、ハノイでの演説に引き続き、1999年、2000年の施政方針演説と一貫して、逝去直前まで「人間の安全保障」理念の重要性を強調した。

 小渕総理の外務大臣時代に政策ブレーンとして活躍したのは、外務政務次官の武見敬三(現自民党参議院議員)であった。武見議員は、早くから「人間の安全保障」概念に注目しており、日本外交に取り込む必要性を認識していた。武見政務次官とともに外務省で手腕を発揮したのは、上田秀明審議官であった。また、国連外交の場で、力を発揮したのは佐藤行雄国連大使であった。こうして、小渕総理の下、外務省が一体となって、「人間の安全保障」を日本外交の重要な柱として確立すべく力を傾注した経緯がある。

 なお、小渕総理の後を引き継いだ森、小泉総理もこの理念の重要性を継承した結果、日本外交における人間の安全保障政策が定着していった。

 人間の安全保障」の射程と今後の展望

 「人間の安全保障」の理念は、先に述べたように、1941年1月のルーズベルト大統領演説の「恐怖と欠乏からの自由」を拡張発展させたものであり、同年8月の大西洋憲章第6項、そして日本国憲法前文に継承されている。

 日本を含む西側諸国の共通の価値として「自由」「民主主義」「法の支配」「基本的人権」の四つが指摘されるが、「人間の安全保障」は、その一つである「自由」を安全保障の観点から解釈発展させたともいえる。

 また、「人間の安全保障」を、「国家の安全保障」「国際社会の安全保障」を議論する上で中核的理念と位置付けることにより、グローバル世界における新たな安全保障論を展開する可能性を秘めている。

 さらに、ガバナンス論・国家統治システム論との関係でも有効な理念となりうると考えられる。

 紙幅の都合で、詳細は別の機会に譲ることにするが、「人間の安全保障」の射程は広く深い。理念の力は、世界を変化させることは歴史が証明している。今後の活発な議論の展開に期待したい。

以上