第33回 時代と時間意識

元駐タイ大使 恩田 宗

 6月10日の「時の記念日」は日本人が「欧米並みに」時間を守るよう啓発するため大正9年に制定されたものである。近年この記念日への関心はあまり高くない。日本人の時間厳守は今や世界的にも定評があるので役目は終ったということかもしれない。

 日本は明治6年太陽暦を採用し時計を大量に輸入した。明治30年には柱時計は3世帯に1つ、懐中時計は成年男子10人に1人の割合で普及した。しかし時間に対する鷹揚さは相変わらずだったらしい。昭和の始めに招聘したフランス人からは日本の工場の能率が悪いのは従業員特に上級技術者が時間にルーズなためだと指摘される状態だった(「遅刻の誕生」橋本毅彦編)。日本人が時間に厳格になったのはごく最近のことである。新幹線が開通しオリンピックが開催された後になっても省庁間会議などなかなか定刻には始まらなかった記憶がある。

 1日の時間を12等分しそれを十二支の名で呼ぶ十二辰刻制は7世紀半ばに大陸から導入された。宮中や主要国衙では漏刻を設置し辰刻毎に時を知らせていたがその枠外の人々は太陽の動きを目安に生活していた。平安中期の源氏物語では「あけぐれのほどに」「日たかくなりて」「いたう更けゆくに」などという言い方をしていて54帖の半分の27帖を繰ってみても時刻が出るのは源氏の元服式(申の時とあった)の他3場面だけである。

 時代が少し下って藤原定家になると日記「名月記」に「午時許(うまのときばかり)参大炊殿・・申時許(さるのときばかり)退出」などと時刻を几帳面に書き付けている。当時の宮中周辺の人達は一辰刻(2時間)を時間の最小基本単位として使っていたようである。

江戸時代になると庶民も大都会の住民は時太鼓や時鐘(江戸では10数か所にあった)で一刻(いっとき)(時)(年間平均で2時間)毎の時間の進みを知ることが出来た。しかし生活の便宜上その半分の半刻(はんとき)がよく使われ職人は明け六つ半(今の午前7時半頃)に出勤し夕七つ半(同午後5時頃)に仕事仕舞をしていた。武家社会では上刻(じょうこく)(尅)・中刻・下刻という一刻の3分の1の単位(年間平均で40分)を使っていた。しかし吉良左兵衛が赤穂浪士の討ち入りは「昨十四日八つ半過」だったと答えたように半刻という単位もよく使ったようである。

 乱暴な断定だが、鎌倉時代から江戸時代で日常生活によく使う時間の最小基本単位が2時間から1時間に縮まっている。その速さだと現代のそれは30分になるが実際の今の生活習慣に近い。しかしこのペースで行くと21世紀半ばの生活は15分単位という気忙しいことになってしまう。

 時間意識は国によっても違う。モロッコで日本青年が遅刻常習の女友達に苦情を言うと「私は新幹線ではないの」と答えたという。その2人うまくいっただろうか。