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「沈黙」に潜む遠藤のこだわり


元駐バチカン大使 文明論考家 上野 景文

 遠藤周作の最高傑作と言えば「沈黙」。周知の通り、極めて深く重い宗教的テーマを扱ったこの秀逸な作品は、最近話題になることが多い。ひとつには、米国の巨匠スコセッシ監督がこれを映画化して、この春上演されたこともある。NHKが特番を制作の上数次紹介したほか、各紙が紙面を割いて論評した。総じて、巨匠が遠藤の作品を取上げたことを評価しつつ、作品の現代的意義を問うものであった*。

 それはそれで良かったのだが、何故か、重要な視点が欠けていた。突き詰めて考えると、遠藤の原作はローマへの「挑戦の書」であると位置づけられるのだが、その点と、(それ故)映画の真価はローマにインパクトを及ぼすことになるかにかかっているという点の二つが抜けていた。本稿では、そのアングルから、遠藤の思いを推理する。

*NHKの特番は、世界的巨匠が日本人作家の作品を取り上げてくれたこと自体を有難がると言うニュアンスが感じられ、明治の「洋化期」以来お馴染のメンタリティーの延長という面があった。

 スコセッシ監督の映画には、映像ならではの生々しさがもたらす迫力(それはそれで付加価値と言えるが)があったが、遠藤の原作を超えるような思想的、文明論的メッセージが込められていたであろうか。もし、この映画が、その観点から原作を超える付加価値を生み出していたのであれば、それなりに評価するべきと考えるが、遠藤の思想の追認ないし確認にとどまるものであったように思えた。だから、この映画の評価は、遠藤の原作そのものをどう評価するかにかかっている

 言うまでもなく、原作は、主人公ロドリゴをはじめとする棄教者の宗教的苦悩を、かれらに対し「沈黙」を続ける神を背景に描いており、限界的状況を設定しつつ、「信仰とは何か」というテーマを、根本に立ち返って問うものである。その極め付けは、イエス(と目される人)の声が、棄教するか否かで揺れているロドリゴに対し、「(踏み絵を)踏むがいい」との言葉を発した点にある。遠藤は、「イエスはロドリゴの棄教を許容した」との解釈を可能にする筋立てをもって、物語を締め括った。

 「キリストが棄教、すなわち、背教を許した」とのこの遠藤の大胆な筋立ては、ローマカトリック教会の主流派、保守派から見たら、タブー中のタブーと言うか、「決してあってはならない」ものであり、世が世なら(=中世であれば)遠藤は火刑に処せられた筈だ。言うまでもなく、背教に関しては、キリスト教だけでなく、どの宗教もきつく当たる。特に、イスラムの厳しさは周知ことだ。ローマの主流派、保守派にとり、遠藤のメッセージは決して許容できるものではない。

 では、ローマに抗ってまで、遠藤が追求したものは何だったのか。よく知られたところであるが、遠藤が作家人生を通じて追究した最大のテーマは、(日本人に着心地の悪い)「洋服的」キリスト教を(日本人に合う)「和服的」キリスト教に「仕立て直す」には、どうしたら良いかという点にあり、 遠藤は、「日本人の心情に合うキリスト像」を模索し続けた。

 遠藤が「着心地が悪い」と感じたキリスト教とは、「沈黙」に即して言えば、殉教者は手厚く顕彰する一方で、棄教者は背教者として無慈悲に葬り去ると言う厳格性、換言すれば、その「父性的」体質にあった。「父性的」な教会に「着心地の悪さ」を感じた遠藤は、「銃と十字架」で、棄教者につきこう言い放った。

 「・・・彼等もまた闘ったのである。…彼等も、苦しみ(ながら)生きたのだ・・・(かれらを)闇の中に見棄てる気にはなれぬ・・・」

 棄教者も、殉教者同様、苦しみ抜いたのに、無情に「背教者」の烙印を押して良いものか? 「すべてを許し、包み込む」という慈悲深く、「母性性」溢れるキリストであれば、彼等を許してくれる筈だ。 それが、遠藤が達した心境であり、スコセッシ監督もこの点で遠藤に共鳴したものの如くだ。遠藤は長年苦しみ抜いた末に、この「母なるイエス」像に辿り着いたようで、閃きが訪れた瞬間、病気静養中だったにもかかわらず、遠藤は飛び上がって歓喜し、「ついにわかったぞ!」と叫んだそうだ。

 この「母性性」溢れるキリスト像へのこだわりは、遠藤だけが触れている訳ではない。日本のカトリック司教からも同旨の発言が多く聞かれる。たとえば、1998年にローマで開かれたアジア特別シノドス(代表司教会議)において、池長大司教は、遠藤に言及しつつ、こう力説した。

 「キリスト教は神と宇宙、・・天国と地獄、・・・二つの世界を対立させます・・・東アジアの・・人々は・・・それほど白と黒を選別することは出来ないと感じています・・・・・この違いは・・・・欧米人には「父性的」特徴が勝ち、・・・東アジアの人々には・・・「母性的」特徴が目立つ・・・父性は区別し、割り切り、切り離す・・・・母性は分け隔てせず・・・・すべてを包み込みます・・・・・・・このような母性的表現がもっとなされれば、キリスト教はアジアの人々になじみやすい・・・受け入れやすくなる・・・」

 白黒を峻別するのでなく、グレーな部分にも配慮せよというこの池長の主張は、大方の日本人には頗る分かり易い。乱暴に言えば、遠藤も池長も、「ローマ教会は、アジアではもっとアジア的、日本的になれ」と言っているのだ。バチカンでの閣僚職を経て2007年に亡くなられた浜尾枢機卿からも、生前、同旨の発言が聞かれた。「アジア的、日本的になれ」と言うものである以上、遠藤等のメッセージは、普通の日本人には違和感はない。裏返して言えば、その分、ローマは違和感を覚えている趣で、筆者が承知する限り、池長の主張は今日に至るまでほぼ20年間ローマに黙殺されたままだし、遠藤のメッセージもローマの主流派は受け入れてない。但し、4年前就任した現法王フランシスコの諸発言からは、ローマの従来の厳格な姿勢とは一線を画する「母性的トーン」が感じられるが(本稿では、この点はこれ以上立ち入らない)。

 つまるところ、遠藤は、ローマに抗うことになることは百も承知の上で、「日本的」キリスト像を提示したものと解せられる――それも、大胆と言うか、挑戦的に。「沈黙」を筆頭に、「銃と十字架」と言った一連の作品を併せ読むことで、隠れたねらいを探れば、作者自身強く意識してはいなかったかもしれないが、「西洋的カトリシズム」に対する「挑戦の書」であったとの位置付けが可能となる。

 と言う次第なので、今回の映画の真価は、遠藤的メッセージが、この映画を通じて、広くカトリック世界、就中、西洋圏の奥底に届き、かれらに何らかのインパクトを与えるかどうかで決まる。因みに、この作品は日本人には分かり易い内容なので、日本で好評であって当然であり、日本で高く評価されたとしても、それで作品の真価が高まると言うことはない。

 遺憾ながら、西洋圏での映画の興行成績は芳しくなかったようだ。遠藤的主張への西洋圏での反応・評価は、多文化主義的な一部インテリ(彼らは概して、伝統的なクリスチャンとは一線を画す)を別とすれば、高くなかったと承知している。かれらが遠藤のメッセージを真剣に受け止めるようになるのはいつのことか。「東と西の精神的ギャップ」はまだ深い(敬称略)。