第31回 日本橋と侍

元駐タイ大使 恩田 宗

 日本橋が今の石造りになったのは1911年である。名橋日本橋保存会は橋を覆う高架道路の撤去や河水の浄化など周辺を整え再び人を呼び戻したいとしている。ソウル市の清渓川(チョンゲチョン)は市民や観光客の集まる水辺として見事に整備されている。日本橋川もそうなればと思う。

 江戸時代、日本橋界隈は府内随一の繁華地だった。地下鉄三越前駅の地下道に飾られている絵巻「熈代勝覧」がその賑わい振りを伝えている。色々な身分・職業の人が往来していて江戸の人間図鑑のようである。

 当時は士農工商の四階級あったと言われるが農工商は職業の違いで身分上の上下はなかった。むしろ支配階級の士(さむらい)の間に細かく厳しい身分制度がしかれていた。特に江戸時代も後半になると徳川家の侍は禄高別に何層かに分けて役職・住居・服装から出勤時の供揃えにいたるまで守るべき精緻な規範があった。カーストに似ていて身分を越えての昇進・交友・通婚は稀だった。

 熈代勝覧の絵図の中央にある本町二丁目を2~30人の供揃えで駕籠で下城するのは6~7,000石クラスの大身の侍である。左端の日本橋を馬で渡る麻裃の侍は供侍・槍持・草履持・馬の口取・挟箱持・合羽篭担ぎの6人を従えており4~500石の旗本だと分る。絵図の各所で小者一人連れて歩いている継裃(つぎかみしも)の侍は3~40俵取りの御家人である。

 袴もはかず尻端折で槍を持つのは足軽である。二本差しで一応侍ではあるが「士分以上の者の家に至りても・・決して坐席に上がること叶わず」と士分の侍とは厳しい身分の差があった。足軽だった伊藤博文も松下村塾での勉強は屋外での立ち聞きだったという。中津藩では上士と下士で使う言葉も違い下士だった福沢諭吉は「(父親は)束縛せられて何事も出来ず・・不平を呑んで世を去」ったと書いている。

 尊皇攘夷のイデオロギーに共鳴し変革への活動に身を投じたのは閉塞した武士社会(人口の約7%)の底辺で鬱積していた青年達だった。

 大阪の道頓堀の橋はニッポン橋と読む。「日本」が国号として使われ始めた飛鳥奈良の時代にそれをどう発音していたかは分からないらしい。17世紀初頭の日葡辞書にはFinomoto Nifon Nipponの3つが載っているという。日本をどう呼ぶかの問題は平成21年6月、岩国鉄人議員の質問主意書に対し一つに統一する考えはないとの政府回答が出て当面決着している。どう読んでもかまわないらしい。