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バルチュスとムトン・ロトシルド-絵画とワインの話


駐チュニジア大使 長谷川 晋

 二十世紀最後の巨匠と謳われた画家、バルチュス。バルチュスは通称で、本名はバルタザール・クロソフスキー・ド・ローラ。ポーランド貴族の末裔である。私が初めてその名を聞いたのは、仏での在外研修を終え帰国し、文化第一課に勤務していた時(1982~1985年)である。在京仏大使館文化担当参事官(名前は確かアラン・ジュフロワ)がしょっちゅうバルチュス、バルチュスと言い、日本での展示会開催のために奔走していた(結局、1984年京都市美術館にて開催)。

 バルチュスは日本との関わりが深い。1962年、ときの仏文化相アンドレ・マルローの命によりパリのプティ・パレ美術館で開催される日本古美術展の作品選定のため、訪日。そこで上智大学仏語科在中の出田節子と出会う。バルチュス54歳、節子20歳である。1967年、二人は結婚する(バルチュスは二度目)。「節子をひと目見た時、私が憧れていた日本の形がその姿のうちに秘められているのが分かった(バルチュス)」とある。

 ここで、ワインの話に移る。タイ大使館勤務時代(2003~2005年)、時野谷大使主催の公邸夕食会で、1993年のムトン・ロトシルドが供された。御承知の通り、ボルドーの最高級五大シャトーのひとつである。ワインの格からして、主客は偉い人であったに違いないが、よく覚えていない。そのラベル(仏語ではエティケット)の絵、特に記されているイニシャルを見てドキッとした。バルチュスではないかと思った。

 御承知の通り、ムトン・ロトシルドのエティケットは、毎年異なる絵が採用されるので有名である。確かめたところ、やはりバルチュスであった。巨匠バルチュスが採用されたのはいわばあたり前のことであり、何の不思議もない。しかし、(その後、知ったのだが)なんと、1991年に節子夫人の絵が採用されているのだ。節子夫人も画家であるが、その知名度はバルチュスに比べるべくもない。しかも、バルチュスより2年早く採用されている。不思議である。何らかの訳があるに違いないと思うが、判らない。

 ただ、ネットで調べたところ、1979年に堂本尚郎氏が日本人として初めてムトンのエティケットに採用されているが、当初は1980年のエティケット絵画を依頼されていたが、1979年がムトンに因む(仏語でムトンは羊)「未年」にあたるので、一年前に採用になったそうである。日本人たる二人目の節子夫人の絵が採用された1991年も「未年」であり、これが理由ではないかとの推測がある。

 いずれにせよ、ムトンのエティケットで夫妻で採用されているのは、恐らくバルチュス夫妻のみであろう。そして、その夫人が日本女性であることは、日本人として大変嬉しく、愉快なことである。因みに、私は「未年」である。また、外務省入省の1979年もそういえば「未年」である。ムトン→羊→「未年」→日本人画家採用という話は面白い。「未年」の私にはとりわけ面白い。ムトン・ロトシルドのオーナーは東洋、日本に関心があるのだろうか。

 尚、バルチュスとムトンのエティケットには、もう一つのエピソードがある。93年のバルチュスの絵は幼女の裸体画である-因みに、バルチュスは生涯少女を書き続けた-。これが米国で物議を醸し、差し替えられたのである。何も描かれていない白いエティケットに。(本稿の主題とは関係ないが、かの国はなんという国であろうか。寛容な心がないのであろうか)

 私は、おいしいお酒を飲むことは人生の重大事と考えている。故に、お店でよく、ワインや日本酒を眺めるが、2011年、渋谷駅の某百貨店で、93年のムトンの白いエティケットを見かけた。これで、この話は完結したことになる。

 以上、バルチュスに始まり、節子夫人、そしてムトンのエティケットへつながる話を発見したとき、私は“面白い”と思った。

 世間に「ワイン好き」の男女が増えている。そこで、時にこの話を披露する。しかし、予想に反し、余り感動してくれない。それは、(私の周りの)ワイン好きが、余り絵画に関心が無いからではないかと思う。異なる分野のことをつなぐのは難しい。

 2004年師走、バルチュスに関する新たな出会いがあった。節子夫人の著書「見る美 聞く美 思う美」である。

 バルチュスは2001年に没していた。また、遺伝子病のため、長男を二歳六ヶ月で亡くしていたことを知った。それだけでない。着物が好きということで、私との関わりがまたひとつ増え、以来、彼女の書く物を楽しみにしている。(私は今時珍しい“着物好き”なのである。)

ミュージシャン坂本龍一の言葉が添えられている。

 「坂本龍一氏推薦!ミラノ・コレクションでごったがえす浮夜のホテルのラウンジを、着物をまとった比較的小柄な節子さんが歩くと、まるで海が分かれるように金髪のモデルたちが彼女に道を開けるのだった。その美しさにぼくはあっけにとられ、改めてバルチュスという会ったことのない男を尊敬するのだった。」

 年末に一時帰国していたがスマトラ沖大地震の為、急遽大使館(タイ大使館)に呼び戻された。その機中でこの随筆集を読んだ。成田空港では、降っていた雪の為に出発が遅れたことを思い出す。

 追記

 2015年12月25日のル・モンドに上記のアラン・ジュフロワ氏の追悼記事が出ていた。著名な詩人、作家で、日本勤務の時に日本人女性と結婚(最後の夫人)していた。