第30回 小学唱歌と国民教育
元駐タイ大使 恩田 宗
「学べよ学べたゆまず倦まず・・・人も学びて後にこそ賢き人となりぬべし・・明日をたのみて怠るな・・愚かな者と世の人に指をさされるその折は悔い悲しめどかいぞなき・・」明治14年生まれの祖母が子供の頃習った唱だと言っていた。その歌詞に遠い明治の息吹のようなものを感じた記憶がある。
維新政府は明治5年5万を超える小学校の設立を決定し「人心ヲ正シ風化ヲ助クルノ妙用」ありとして唱歌を必須科目とした。明治14年文部省編纂の小学唱歌集初編を見ると33歌のうち六割が「香をれ匂え園(そのふ)の桜・・」といった自然や風景の歌である。今に残る「蝶々」や「蛍の光」(題名は「蛍」)も入っている。残りは「玉の宮居は荒れ果てて雨さえ露さえいとしげけれど民の竈の賑わいは・・」といった天皇の仁徳に感謝しみ栄えをことほぐ歌であるか「弓とりて君の御先に勇みたち・・」「父母(ちちはは)の庭の教えに違うなよ・・」というような忠孝・勤勉を勧める歌である。
しかし「皇御国(すめらみくに)の男(をのこ)らは・・世の生業(なりはひ)を勤めなし、国と民とを富ますべし」などという歌をあの頃の子供達は喜んで歌っていたのだろうか。明治21年、民間人の原田砂平は文部省唱歌の数には限りがあり歌詞が「修身ノ格言」のように立派だとしても「学児輩ノ倦厭ヲ来サン事ヲ憂ヘ」ると言っている。そして導入されたばかりの教科書検定制度を活用し「歌詞平易ニシテ・・活発爽快ニ好ンテ唱謡スベキ」歌を集め「新撰小学唱歌集」を発売した。
ところがその新撰歌集にしても「他人のために実(まこと)をつくせ」とか「やよ子供らよ皆きけよ・・朝とく起きて顔洗い、まず父母にお辞儀せよ、食事をすませ仕度して、教えの庭に急ぎこよ、教えの庭に在る時は、体を直に脇見せず・・受くる教え心に留めて・・教えの庭をいとませば、急ぎて家に帰りゆき、父と母とにまめな顔」を見せよなどという歌が多い。時代の風潮がそんなだったのである。それが変ったのは20世紀になってからだという。
数年前のことだが中国のハルビン駅待合室の壁面に1990年代の国民標語の「八栄八恥」がまだ消されずに残っていた。「祖国を熱愛し、人民に服務し、科学を崇尚し、労働に励み、団結して互いに助け、誠実にして信を守り、紀律と法を遵守し、艱苦奮闘するは栄(ほまれ)である。祖国を危害し、人民に背離し、無知愚昧で、労を嫌い逸を好み、人を損ない己を利し、利を見て義を忘れ、法に違い紀を乱し、驕奢淫逸に耽るは恥である。」中国もつい最近までこんな修身の格言のような標語で国民の教化と民心の引き締めに懸命だったのである。