第29回 腸の働きと選択
元駐タイ大使 恩田 宗
書店で本を選んでいると決まって便意をもよおす人がいる。雑誌やテレビはこの奇癖というか困った現象を告白する投書をした(1985年)女性の名前を取って青木まり子現象と呼んで話題にした。同じ悩みを持つ著述家高橋恭一が友人知人に訊ねると10~20人に一人の割合で仲間がいたという。図書館やスーパーでもそうなる人がいて米国にもいるらしい。医者は過敏性腸症候群などと診断するがそれで事が解明されたとは言えない。その点素人だが高橋恭一の説は納得できる。腸は選択という意思決定に深く関わっていて外界を察知する能力もある、しかし選択対象例えば本があまり多い場合はたまりかねて蠕動するというのである。
確かに選択は脳による情報の収集分析だけでは行い得ない。これだと決める一押しの情動が必要である。「内臓が生みだす心」(西原克成)によると喜怒哀楽や恋慕・共感・嫉妬・怨恨などの心の動きつまり情動は内臓に発する。腹を決める、胸が痛む、心(ハー)(心臓(ト))が疼く、肝を冷すなど正に字の通りだと言う。事実、心肺同時移植をうけた婦人が提供者の青年の心が自分の中に生き続けているように思われると述べている。又、柳田邦男は脳死した次男を病院に見舞うとその度にその子の体温が上昇し話しかけると体で何か応えようとしているのが感じられたと書いている。
人が気持よく処理できる選択肢の数には限りがある。米国の401K年金制度では加入者の拠出金をどう運用するかは自分で投資ファンドを選ぶことになっている。ファンド数が4つだった当初は加入率75%であったが59に増したら60%に減ってしまったという。選択肢の数に圧倒され決められない人が出てきたのである。商品販売実験では選択肢が7プラス・マイナス2の時に最もよく売れたという(「選択の科学」S・アイエンガ―)。ユニクロでも材質とデザインが同じ商品は選択肢が10色を超えることはあまりないらしい。
人間は原初に遡れば海に漂う腸一本のような生き物だった。心臓や肺などの内臓は腸からの派生器官で脳や目鼻も腸の入り口が進化したものだという。人間は枝葉をとれば腸である。その精神活動も核心は内臓(情動)であり脳(理性)ではない。日常両者はバランスよく働いているが内臓にはいざとなれば脳を制圧する力がありしばしばそうしている。
三国志の劉備、関羽、張飛は義兵募集の高札の下で出会い意気投合して酒杯を挙げ翌日桃畑で義兄弟の契りを結び数日後には戦場に向う。若い彼等は全身的反射的情動だけで一生を掛けた選択をしている。
「まり子現象」は人の根本は腸であることを忘れるなとの現代人への警告である