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ブルガリアの地を初めて踏んだ日本人-露土戦争の観戦武官・山澤静吾の武勲-

福井宏一郎
元駐ブルガリア大使 福井 宏一郎

私は、ブルガリアに2004年から2007年まで大使として赴任した。この時に、山澤静吾なる露土戦争の観戦武官がロシア軍の側で戦い、戦地にいたロシア皇帝から叙勲されたとの興味深い逸話を耳にした。日本では歴史の中に埋もれて、殆ど知られていなかった人だ。

ところが小説「屍者の帝国」(2014年発刊)の中で剣の達人として登場し、映画化もされて、最近その勇名が噂話と共に一部で飛び交うようになった。実像はといえば、中立国の観戦武官が戦地を視察中に戦うというのがそもそも不思議な話だ。本稿では、謎に包まれた山澤の行動を当時の資料などから推察する。

露土戦争と観戦武官・山澤静吾

山澤静吾は、幕末から明治を生きた薩摩の人である。日本ではちょうど西南戦争の時期に、ロシアとトルコの間で戦争が勃発した。これが露土戦争である。山澤は日本政府派遣の観戦武官としてロシア軍本営に属し、この戦争に臨んだ。のみならず、重大な場面で巻き込まれた。

ロシア帝国とオスマントルコ帝国は、1877年(明治10年)から1878年(明治11年)にかけて露土戦争を戦った。ロシア帝国の汎スラブ主義・南下政策の中で、トルコに支配されているバルカン半島のスラブ人を救うという旗印を掲げて、ロシアの大軍がドナウ川を渡り、オスマントルコ領内のブルガリアでトルコ軍と激突した。

激しい戦闘が何度も繰り返されたが、戦争はロシアの勝利に終わった。オスマントルコは、この後に衰退・瓦解へと向かっていく。勝ったロシアも、戦後すぐの英仏独の干渉で得たものは期待外れとなり、バルカン半島の民族問題も解決されなかった。ロシアは、その前のクリミア戦争、その後の日露戦争と苦しい戦争が相次ぎ、国内は疲弊した。その意味で、露土戦争は第一次世界大戦・ロシア革命という、20世紀ヨーロッパの動乱への序章となる大戦争であった。

この露土戦争に、観戦武官としてロシア軍本営に加わったのが、陸軍省からフランスに派遣されていた山澤静吾である。山澤は西郷隆盛や大久保利通と同じ鹿児島城下の三方限に、1846年1月に生まれた。三方限は、明治維新を担った下級武士が住んでいたところである。露土戦争が始まる2年半ほど前から陸軍中佐としてフランスにいたが、露土戦争の観戦武官に選ばれてフランスからロシアに入った。山澤が31歳の時で、ロシア軍本営に属して露土戦争の一年余をロシア軍の中で過ごした。

中立国の観戦武官は自身が戦闘に加わる事はない。ところが山澤は露土戦争の大きな山場のプレヴェンの戦いで、1877年9月11日の両軍激突の時に武功をあげ、戦地にいたロシア皇帝(アレクサンドル2世)から勲章を授けられている。この戦は、ロシア軍の死者が2万という惨憺たる被害で、いわばロシアの負け戦の中での武勲だった。負け戦に、山澤がロシア皇帝から特別に感謝された行動とは、一体何であろうか。そして、ロシア軍本営にいる観戦武官が戦わなければならないとは、どういう状況であろうか。

山澤派遣の背景

露土戦争に日本から観戦武官を派遣したいとロシア政府に申し入れたのは、在ロシア特命全権公使の榎本武揚である。榎本は旧幕臣で、戊辰戦争では蝦夷地の総裁として函館戦争を率いた。敗北後、榎本は敵将の黒田清隆の助命嘆願により救われ、明治政府に仕えてロシアとの領土交渉に当たっていた。1875年の千島樺太交換条約は、榎本とロシアの外務大臣との間で締結されたものである。さかのぼって榎本は、旧幕府から派遣されてオランダ留学中に、プロシアとデンマークの戦争を観戦武官として視察した経験があり、国際法を熟知していた。

外務卿(外務大臣)の寺島宗則は、陸軍卿(陸軍大臣)の山縣有朋と協議し、陸軍省からフランスに派遣されている山澤静吾を観戦武官に選んだ。薩摩藩英国派遣使節の一人だった寺島は維新後に外交に活躍の場を得て、関税自主権の交渉に当たっていた。長州の山縣は陸軍を足場に、その後国政に大きな影響を与えていく。山澤の露土戦争派遣は、旧幕臣・薩摩・長州の、幕末・明治を飾った人たちの合作であった。折しも明治10年、日本国内では西南戦争が勃発し、よちよち歩きの明治新政府は、その存立さえも危ぶまれた時期である。

露土戦争の進展

ロシアは1877年4月22日にオスマントルコに宣戦を布告し、ここに露土戦争が始まった。ロシア軍はロシア皇帝の弟の軍人ニコライ公爵を総司令官とし、7月にドナウ川を渡ってブルガリアの地に入った。山澤はロシア軍本営に属して行動を共にした。ロシア軍は更に南下して、プレヴェンの要塞にこもるオスマン・パシャ指揮下のトルコ軍と対峙した。

7月末までに、ロシア軍は3万5千に、トルコ軍は2万2千に増強された。7月31日にロシア軍はトルコ軍の要塞を攻撃した。激しい戦闘の末、日暮れまでにトルコ軍はロシア軍を撃退した。ロシアの死者7千3百、トルコの死者2千、ロシアにとってはまさかの緒戦の敗北であった。

トルコ軍の手強さに、ロシアは8月中に軍を10万に増強した。ロシア軍の援軍として、ルーマニア軍も到着した。トルコ軍は3万がプレヴェンの要塞に立てこもった。兵力差からみて、ロシア皇帝アレクサンドル2世は勝ちを疑わず、弟の指揮する戦の観戦にプレヴェンにやってきた。山澤静吾はロシア軍本営から、負けるはずのない戦を観戦するはずであった。

9月11日、ロシア軍の総攻撃が始まった。トルコ軍は、繰り返し前進してくるロシア軍に対し、プレヴェンの要塞からクルップ製砲尾詰め大砲とウインチェスター製連発銃を何時間も浴びせ続け、反撃した。ロシア軍の死者は2万にのぼった。総攻撃は失敗に終わり、その後戦線は膠着した。

山澤の武勇と叙勲

その少し後の9月20日に、ロシア外務省大輔ヂエールから榎本武揚ロシア公使に「陸軍中佐山澤静吾氏は釼の形を装付せしサンブラヂミル四等賞牌を綬典相成り候」(外務省公電)と連絡があった。ロシアの惨憺たる戦いの後で、戦地にいたロシア皇帝から山澤が叙勲したというのである。

この武勲の様子を10月19日の外務省公電は次のように記している。「山澤静吾、露軍に属し戦地に出張中、弾丸雨注の際、自若勇猛の挙動抜群、衆目を驚かし、戦地熟練の名誉を露軍に顕し、魯(露)帝より勲章を授けられし旨、戦地より申し越す」(在フランス公使館の中野代理より陸軍卿山縣有朋宛て)観戦武官が衆目の驚く勇猛ぶりで、ロシア皇帝から戦地で勲章を授与されたとは、どういう事であろうか。

中立国の観戦武官が戦うというのは、トルコ兵がロシア軍本営に迫り、自分の身を守る必要があったとしか考えられない。ロシア軍本営総崩れの一歩手前が目に浮かぶ。山澤は、白兵戦の中で軍刀を振るって応戦したのであろう。これは想像だが、一撃で頭蓋骨を切り裂く山澤の自顕流が露土双方の兵士の「衆目を驚かし」、トルコ兵を撃退するほどの威力を持ったのではないか。自顕流は、初太刀を相手の頭蓋骨に一瞬でも早く打ち込む事を繰り返し練習する実戦向きの特異な剣法で、薩摩では下級武士が修練していた。幕末ものの歴史小説では、広い意味で薩摩の示現流として知られている。

山澤の生い立ちをひもとくと、1846年1月鹿児島の三方限生まれ、17歳で薩英戦争に従軍、18歳で蛤御門の変を経験、21歳で戊辰戦争に従軍、23歳で御親兵として上京、25歳で陸軍へ。幕末の動乱を、白刃の下をくぐり抜けている。強いはずである。山澤の「戦地熟練」は、露土戦争の重大な場面で、ロシア皇帝が特別に感謝するほどの働きとなったようだ。

山澤は1878年11月にフランスから帰国後、陸軍軍人を全うした。1895年に陸軍中将第4師団長として日清戦争に従軍、その武功により男爵を授けられ、1897年に51歳で没した。日露戦争が始まる7年前である。妻の若子と対の双墓が青山墓地に残る。

プレヴェンの町は今や瀟洒な文化都市となっており、露土戦争の要塞跡には記念館が建っている。古戦場を見渡すと、140年前にブルガリアの地を初めて踏んだ日本人・薩摩の武人、山澤静吾への想像が膨らむ。