ナショナリズムの潮流、米国に押し寄せる

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杏林大学特任教授
元駐バチカン大使
上野 景文

国際社会の潮流を見よう

 昨秋のトランプ候補当選は「世紀の番狂わせ」だったと言われています。米国の中で見ていると、そう見えるのかもしれませんが、果たしてそうなのでしょうか。見通しを誤ったことについては様々な「弁明」が聞かれます(注1)。成る程と思わせるものが少なくありませんが、もの足りなさが残ります。それは、国際社会全体の「流れ」への着眼を欠いたものが多いからであり、いまや「国際社会の主役」に躍り出た感のあるナショナリズムを補助線に使うと、「トランプ当選は意外なことではない」との説明が可能になります。以下、私の見立て、お話しします。

振り返ると、「全ては1991年に始まった」ということになりそうです。すなわち、国際社会においては、1991年のソ連崩壊・冷戦構造の終結を機に、それまでの「イデオロギーの時代」が終焉し、「国益の時代」、「ナショナリズムの時代」が到来しました。つまり、国家関係を律する「基本文法」が、「イデオロギー(普遍理念)」の対峙から「国益」、「ナショナリズム」の対峙に転換した訳です。1990年頃を境に、多くの国が、イデオロギーの桎梏から解放され、これに代わって、「国益」を基軸に「自国中心主義」的に振る舞うようになりました。この結果、近年、「国益」対「国益」の衝突が増え、「イデオロギーの時代」に比し、国際秩序は低下し、国際社会は不安定性、不透明感を増しています。

と言う次第はありますが、長く自由陣営の盟主であった米国は、1990年以降も引き続き、「普遍理念(民主主義、人権)」の擁護者として国際社会に君臨し、にらみをきかせて来ました(国際政治学者イアン・ブレマーのいう「G1の世界」)。が、この10年、中露両国をはじめ多数の国が「自国本位」の振る舞いを大幅に強め、普遍的理念そっちのけで国益追求をはかり、ナショナリズムを強める中で、その姿を目の当たりにした米国は、(1945年以来70年にわたって務めて来た)普遍理念の擁護者、すなわち、盟主の役割を棚上げにして、「一般の国々」同様、「国益中心主義」で行こうと決断するに至った――それが昨年11月の選挙結果の意味するところと解します。

つまり、昨秋の選挙で、米国国民は、1990年を境に現出した「ナショナリズムの時代」に、遅まきながら(=25年の遅れ)参加しようと決断したということです。「自国中心主義」を軸に「普通の国」になろうということです。トランプの強烈な個性、言動につい気をとられがちですが、冷静に眺めれば、世界の潮流に乗っかろうと選択したことは、「理にかなったこと」と言えます。米国と言えど「国際社会の潮流」からいつまでも超然としてはいられないからです。「普遍理念」が疎んじられ、ナショナリズムが跋扈する今日の国際的潮流に思いを致せば、「イデオロギーの時代」の意識を依然として引きずっているクリントンを選択することの方が、「サプライズ」と言えます。

(注1)(グローバリゼーション深化がもたらした)格差拡大へのブルーカラー層の怒り、(そのような問題に取り組もうとしないワシントンを中心とする)エリート層への中流層以下による反感、移民急増への反発などなどの問題の「深刻性」を読み違えた(過小評価した)と言う説明が中心でした。

「ナショナリズムの時代」は25年前始まった

ですから、現下の国際社会をしっかり理解するために最も大事なことは、国際社会の主役に躍り出た「ナショナリズム」なり、「国益中心主義」、「自国ファースト主義」が、今後どう推移するかを見究めることでしょう。おさらいまで、この25年の世界の動きを振り返ってみましょう。1989年頃を境に、多くの国が、ナショナリズムを強め、冷戦時代にはあり得なかったような新しい展開が、次々と起きました。

① まず、1990年に、イラクが「大イラク主義」とも言える強烈なナショナリズムのもと、クウェートを併合し、世界を驚かせました。その後の「ナショナリズムの時代」の到来を予感させる衝撃的事件でした。 ② ついで、1991年には、インドで、ヒンズー・ナショナリズムを掲げるBJP(インド人民党)が政権を掌握。更に、1998年には核実験を敢行。このナショナリズムと宗教の共鳴や、核実験敢行も、ナショナリズムそのものの顕現であり、冷戦時代にはあり得なかった展開でした。 ③ 他方、東アジアに目を向ければ、中国や韓国で、それまで抑制されて来たナショナリズムが、反日色を伴う形で、活性化されました。 ④ しかしながら、新時代を象徴する最大の展開は、「イデオロギー帝国」であったソ連邦やユーゴスラビア連邦の解体に伴う、多数の国家誕生でしょう(バルト3国、ウクライナなどの東欧諸国、コーカサス諸国、中央アジア諸国から、スロベニア、クロアチアなどバルカンの国々に至るまで)。イデオロギーや強権で押さえつけられて来た多様なアイデンティティー(ナショナリズム)が、「重石」の消失により、自由を獲得した訳です。

ナショナリズムの先鋭化――3つの流れ

 21世紀に入ると、世界各地域で、ナショナリズムの焔は更に強まって来ています。特に「3つの流れ」に注目しましょう。

① 中国、ロシア

この10年、主導的な動きを見せたのは、言うまでもなく、中露両国です。先ずロシアですが、ジョージアとの係争地の併合(2008年)、クリミヤ併合(2014年)、シリア紛争への武力介入、西側へのサイバー攻撃などを通じ、強引とも言える行動をとるようになっています。中国についても、四半世紀にわたる軍拡、南シナ海・東シナ海における自国中心的な振る舞い、西側へのサイバー攻撃などを通じ、ロシア同様、アグレシブな行動をとっています。両国の行動は、共に、国際規範を軽視し、国際秩序に挑戦する危険な要素をはらむものであり、別の角度から見ると、「狭義の国益」追求を遥かに超えるもの、より大きな「野望」に駆り立てられたものと解されます。すなわち、かれらのナショナリズムからは、長年にわたり西側から受けた屈辱を晴らすべく、「国際秩序」(彼らの眼には、米国など西側本位のものであり、米国などはこれを恣意的に乱用していると映っている)に挑戦し、見返してやるのだと言う「執念」なり「覇気」が感得できます。かれらのナショナリズムは、「怨念」に根差す、根深いものである点、見逃す訳にはゆきません。

② 多くの非西洋諸国

 これに併行して、多くの中堅国家が、中露両国程ではないにせよ、ナショナリズムに基づいた「自己主張」を強めています。ナショナリズムそのものは、国家の建設、近代化を図る過程で、国民の「心を一つ」にまとめる(注2)ために、国民が共有する文化、歴史、体験などを核に整備されるもので、適度なナショナリズムを育てることは、国の建設のために必要なことと言えます。

ただ、ナショナリズムは、何らかのきっかけがあれば、しばしば、「外」に対する対抗心を強め、健全なレベルを超えて過剰になる危険を孕んでいます。グローバリズムへの反発や靖国参拝・・・など、ナショナリズムに火をつけるネタは幾らでもあります。きっかけ(反発の対象)さえあれば、情念に火がつき、それを梃に、ナショナリズムは先鋭化します。試みに、先鋭化の心配のあるナショナリズムの事例をざっと整理してみました。

① (貿易、移民などとの関係で)「排外主義」が強まっている国:多数(反グローバリズムが強まっている西欧、米国もこのパターン) ② 宗教ないしイデオロギーを梃にナショナリズムを強めている国:サウジアラビア、イスラエル、イラン、トルコ、インド、パキスタン、マレーシア、北朝鮮など(ロシアも同様) ③ 逆に、宗教色を排除することでナショナリズムを強めている国:エジプト、アルジェリアなど ④ 「過去の栄光」再興を標榜している国:トルコ、インドなど(中国、ロシアも同様) ⑤ 自国(自民族)を「神聖視」することで、ナショナリズムを擬似宗教化させている国:韓国、北朝鮮(中国も同様) ⑥ 「外敵」(大国、近隣国、旧宗主国など)への反発をばねにナショナリズムを固めている国:ウクライナ、ジョージア、フィリピン、ベトナム、北朝鮮、韓国、エジプト、キューバ、メキシコ、ベネズエラ、ボリビア、ブラジルなど多数(中国、ロシアも同様) ⑦ (⑥と重複)「欧米本位」の国際規範、国際秩序への反発を強め、これを軽視:多数 ⑧ (⑥と重複)領土面、或いは、経済貿易問題などで、「拡張主義」に走る国:多数 ⑨ 国内のマイノリティーを「叩く」ことでナショナリズムを強めている国:スリランカ、インド、パキスタン、ミャンマ、タイ、バルカン、中東諸国など多数(中国、ロシアも同様)(注3)

他にもまだありますが、これらのナショナリズムは、ちょっとした刺激が加わると、先鋭化、過剰化する危険があるので、要注意です。

(注2)トランプ大統領も、1月20日の就任演説で、米国民の「心を一つにする」ことの重要性に触れましたが、同じ発想です。

(注3)特に、マイノリティー叩きは、かつてナチスも使った「筋悪」の手口だけに、要注意です。

③ 西側先進国

これに対し、社会が成熟し、ナショナリズムを持ち出さずとも国がまとまっている西側先進国(日本、西欧、米国)は、これまで、国際社会全体の公益実現のために主権の抑制も厭わずと言う余裕の精神(ポスト・ナショナリズム、ポスト・モダニズム)で行動して来ました。つまり、ナショナリズムを抑制して来たということです。が、世界的なナショナリズム乱立の圧力に押される形で、近年、本音に基づく「自国ファースト」の主張をストレートに出すようになっています。

先ず、多くの西欧諸国で、ナショナリズムを露骨に打ち出す政党が議席を増やし、もって、反移民、反EU感情を核とした「ナショナリズムの復権」が進行中です。英国のEU離脱はその端的な事例でした。

加えて、米国でも、国民の間で「世界のために汗を流すのはご免だ」、「自国ファースト主義で行動するべきだ」との意識が強まったことが、トランプ登場をもたらしました。ナショナリズムを強めつつ、「特別の国」から「普通の国」への転換をはかろうということです。

 我が国において安倍長期政権が高い支持を得ていることも、こうした国際的潮流と無関係ではありません。日本でもまた、国際社会、就中、周辺国におけるナショナリズムの高揚を目の当たりにして、ポスト・ナショナリズムからナショナリズムへの「回帰(逆流)」が進んでいます。今後10-20年を展望すれば、我が国にとっての最重要課題は、「普通の国」への転換を如何に図るか(或いは、控えるか)にあります。

米国、「重石」役から扇動役に豹変

国際社会にとっては、秩序維持に不可欠の米国という「重石」を失うこと(一気にそうなるとは思いませんが、じわりじわりとその方向に進む筈)だけでも、大問題なのですが、これまで「重石」役だった米国が、その役割を棄てただけでなく、よりによって「扇動家」に変身したのですから、「二重パンチ」、たまったものではありません。国際社会では、1945年以前に存在していた「低秩序」状態(無秩序とまでは言いませんが)に向かって、否、19世紀的な「弱肉強食の時代」(イアン・ブレマーが言うところの「Gゼロ」の状態)に向かって、「逆流」が始まろうとしています。

そうでなくても、西洋が積み上げて来た既存の国際規範(民主主義、人権、法の支配など)にあらがう形で自己主張を強めている国が増えている中で、また、米国の「豹変」を受け、かつて国際社会において「歯止め」の役割を果たしてきた「普遍思想」、「国際規範」は神通力を一層失いつつあります(注4)。ナショナリズム、すなわち、個別的価値が優先され、「ユニバーサリズム(普遍的価値)」や「インターナショナリズム(国際主義)」がないがしろにされるようになって来たと言うことです。環境問題、貧困問題などのグローバル・イシューに真剣に取り組む国が減り、国際機関軽視が広がることになるでしょう。こうしたことは、もっと問題視されるべきです。

因みに、グローバリズム深化により、国家の存在意義は低下したと言う見方がありますが、誤解です。確かに、グローバリズムの深化により、国家のある種の役割は減りましたが、同時に、グローバリズムの進行は、その結果生じる歪み解消のために、或いは、金融、税制、貿易、特許、通信などの制度の整備のため、更には、環境、テロ対策などの必要性から、国家の守備範囲の拡大と役割強化を招いています(注5)。ですから、グローバリズムの深化にもかかわらず、否、その深化の過程で、国家の有用性、必然性はいささかも減じていません。国家とかナショナリズムとういうものは、そう簡単に「萎える」もの、「やわ」なものではありません。にもかかわらず、英国でも米国でも投票結果を見誤ったのは、国家ないしナショナリズムに対する過小評価があったからと思われます。

で、トランプ型ナショナリズムですが、過去70年間国際社会に営々と蓄積されて来た「智慧の集積(=歴史)」を反故にしかねないと言うことに加え、発想が第三世界的であり(=西洋的なところがない)、19世紀的であることが、とても気がかりです。

では、「第三世界的」とはどう言うことか。ひとつは、外国叩きや国内のマイノリティー叩きを続けている点です(上述のパターン⑥、⑨)。隣国メキシコを叩き、移民叩きを執拗に繰り返すトランプの発想は、プーチン、習近平、モディなどの言動と、どこか重なります。1月20日の大統領就任演説で、トランプは、外国は・・・米国から企業を盗み、職を奪うと言う破壊行為を行っている・・・と述べ、過激なレトリックで排外的感情を煽りました。加えて、「米国を再び偉大な国に」と唱えるトランプの発想は、「過去の栄光」再興を謳う習近平、プーチン、エルドガン、モディなどの発想(パターン④)とそっくりです。更に、国際約束、ひいては国際法を軽視するところも、中露指導者と似ています。そうです、トランプは第三世界(ロシアを含む)の強権政治家と酷似した体質を持っています。

次に、19世紀的と言うことですが、トランプの貿易政策は、19-20世紀的重商主義、或いは、「近隣窮乏化政策」の再現にほかなりません。50-100年前の発想をそのまま引きずっている人なのです。

これらの諸点は、トランプ流ナショナリズムの「影」を示すものと言えるでしょう。  

なお、本稿では、混迷が続くイラク、シリア、リビア、アフガニスタンなどへの記述は敢えて控えました。国際秩序低下と言う観点からは、混迷を深めるこれら諸国の現状(特にテロ・暴力の連鎖)は大問題です。が、これらの国々にとって最も深刻な問題は、「国家が余りにも弱体である」こと(=国家の体をなさない破綻国家)にあります。これに対し、先に述べたナショナリズムを強めている国々の場合、「国家は強靭」であり(更に強くせねばとの意識は強いが)、両者は対極にあります。破綻国家は国家とは言えないので、厳密に言えば、ナショナリズムは存在しないのです。あるのは、部族レベルのトライバリズムや、宗派レベルのセクト主義なりパロキアリズムです。よって、「過剰なナショナリズム」の考察を旨とする本稿では、破綻国家は対象から外しました。

(注4)普遍理念の「復権」は、あるとしても、大分先のことと思われますが、そのためのイニシアチブやエネルギーは、ほかならぬ米国――「ポスト・トランプ」の米国――以外から出て来ることは望み薄でしょう。

(注5)この10-20年、ローマ法王は、(グローバリズムの弊害が目につくようになった昨今の状況を念頭に)国家(政府)の役割は強化されるべきだと言い続けて来ています。

むすび

「ナショナリズムの時代」を演じる大物役者の輪に、この度「扇動家」トランプが加わったことで、当分は、トランプはじめ、プーチン、習近平、エルドガンなどの間で、「共演」が続きそうです。不協和音に満ち、不透明感漲る厳しい時代が来ること必至ですが、我が国にはそれなりの覚悟があるのでしょうか。