思い出の珍談・奇談

元駐インド大使 小林 俊二

酒を持て、オズリック

 古い話で恐縮だが、大学の教養学部に在学中のことである。ESS(English Speaking Society)がシェクスピアのハムレットを原語で上演することになり、協力を求められた。私がESSとは別に英会話クラブを主宰していたからである。私に割り振られたのは廷臣(courtier)オズリックという端役であった。厳密にいうと劇中廷臣は何人も登場するのだが、人手不足の折からオズリック一人で何役かを勤めることになったのである。ともあれ英語の台詞を逐一暗記するのは並々ならぬ作業であるから、台詞の少ない方が楽だと思って引き受けた。

 劇中ハムレットとレアティーズが王と王妃の面前で試合をする場面がある。主な登場人物がすべて命を失うという血腥い悲劇の大詰めの場面である。父である先王毒殺の事実を確信したハムレットの復讐を恐れる国王。宰相であった父ボローニアスをハムレットに誤って刺殺され、ハムレットの変貌に絶望して気の狂った妹オフェリアを失ったレアティーズ。ハムレットを亡きものにするため、王がレアティーズを唆してハムレットに挑戦させた試合である。酒にも剣にも企みが仕組まれていた。オズリックは審判役としてこれに立ち合う。試合半ばで王が小姓に乾杯のため「酒を持て」と命じる。ところが出番の少ない小姓役の学生は退屈しのぎに大道具の陰で裏方と雑談していて、王の命令に気がつかない。王は同じ台詞を二度繰り返したが、小姓は出てこない。窮した王は「酒を持て、オズリック」と叫んだものである。

 廷臣といえども武士である。酒の給仕などするいわれはなかったが、王命とあれば止むを得ない。抜刀していた剣を鞘に収め、片隅の台から細口瓶とコップの載った盆を取り上げて王の許に赴き、酒を注いで王に捧げた。かくてその場は一先ず無事に収まったというわけである。

 終演後、指導に当たってくれた文学部の英人教授を囲む会が開かれ、教授から各人の演技についてコメントがあった。私については酒の注ぎ方が良かったと褒めてくれたが、コメントはそれだけだった。

睡眠中

 私がパリの大使館でOECD(経済協力開発機構)関係の事務を担当していたときの話である。日本の正式加盟も主要な担当案件の一つであった。正式加盟は1964年4月のことであったから、その前年辺りのことであろう。OECD側で加盟交渉事務を担当していた法務部長が何度か東京に出張した。

 東京のホテルの室内にあった”Do not disturb”と記された掛け札が気に入ったらしく、持ち帰って事務局の自室の扉の外に掛けていた。桜の模様をあしらった洒落た掛け札であった。しかし、札に記された日本語の表記を見て吹き出した。掛け札には「睡眠中」と併記されていたのである。私は本人に注意もしなかったから、その後掛け札がどうなったか知らない。

搭乗機の異変

 ある時バンコックで国際会議が開かれ、私は主管課長として三木(武夫)外相に随行してタイに出張した。日本航空の搭乗機がバンコックにさしかかって暫くすると、スチュワデスが青い顔をして客室内の通路を往復し、頻りに「落ち着いてください、落ち着いてください」と乗客に呼び掛け始めた。しかし、搭乗機は異常な揺れもなく飛行を続けており、アナウンスによる説明もなかったから乗客には何のことやら訳が分からず、落ち着いているしかなかった。多分客室乗務員は、マニュアルにない英語の説明ができなかったため、日本語でのアナウンスもしなかったのであろう。

 そのうちに機は着陸態勢に入り、やがて滑走路に着地した。多少がたがたとした衝撃を感じたがそれだけのことで、無事停止した。直ぐ搭乗口が開いてシュートが降ろされ、報道関係者が滑り降りた。乗務員の指示で何も持たずに地上に降り立った報道関係者が「カメラ、カメラ」と叫んでいた。そのうちにタラップが降ろされ、代表団一行は何も分からないままタラップを降りた。地上に降りて見ると機の周辺に消防車が群がり、燃え上がったらしい車輪が白い泡に埋まっていた。要するに着陸態勢に入った際、一部の車輪のブレーキがどうしても外れないため、何度も上空を旋回した挙げ句、そのまま着陸を強行することになった。その結果、ブレーキが噛んだままの車輪が滑走路との摩擦で燃え上がったというわけである。確かに着地した機が姿勢を崩したり、燃え上がったタイヤから燃料に引火して爆発でも起せば大事故になりかねない状況だったのかも知れない。出迎えのため空港に参集していたタイ政府、日本大使館その他の関係者は、極度の緊張に包まれていたらしく、一行遭難の場合には会議を中止せざるを得ないなどと話し合っていたという。

 翌日、現地の新聞に大事故寸前の状況にかかわらず日本代表団一行は何事もなかったかの様子で平然とタラップを降りてきたと、その沈着冷静振りを称賛する記事が掲載された。事情を知らない私たちは取り乱しようがなかったのである。私は代表団の事務方の責任者として何としてでも乗務員をつかまえ、事態を確認すべきだったのであろう。だがそうすれば惨事を免れた機体から外相がシュートで滑り降りる等という、いささか威厳にかかわる事態を招いたかも知れない。怪我の功名ではあったが、余り自慢のできる話でもない。

ジュネーブの昼食会

 私がジュネーブの国際機関代表部に着任して間もない頃だから、1979年半ばのことである。国連ジュネーブ本部で開かれた会議に出席中、議長を勤めていたニュージーランド大使から大使公邸での昼食会に招かれた。

 当日午前の会議終了後、車を運転して大使公邸に向かった。まだジュネーブの地理に詳しくなかった私には招待状に印刷されていた地図が頼りであった。地図に従ってレマン湖畔を走行中、前を行く車の後部座席で同じ会議に出席しているフィリピン大使が薄くなった頭を櫛で撫でつけているのに気がついた。フィリピン大使は会議で途上国グループの代表であり、スポークスマンであったから、議長の昼食会に招かれても可笑しくない。私は時折地図を確かめながら大使の車の後について走った。

 車はレマン湖の南岸に沿って東に走り、やがて右折してゴルフ場のあるコンシュに向かう道に入った。これも地図の示すとおりである。私は大使が議長公邸に向かっているものと確信した。しばらくして大使の車は鬱蒼とした樹木に囲まれた宏壮な邸宅の門をくぐったので、私も後について敷地に入った。大使車は玄関に横づけにされ、車を降りた大使が玄関に入っていった。私は駐車場に車を停め、大使の後を追った。玄関ホールに続く広間では同じ会議に出席している各国代表が歓談していたから、私もその輪に加わった。

 やがてバトラーが食事の用意ができたことを告げ、一同は食堂に入った。どうも腑に落ちなかったのは、ニュージーランド大使の姿がなく、主人の席にイギリス大使が着席していたことである。会議がかなり揉めていたことから、私は議長が昼食会に出席できなくなり、英連邦の誼か何かでイギリス大使に主人役を勤めるよう依頼したのだと解釈した。もう一つ気になったのは、他の出席者の席に金色の紋章入りで氏名のタイプされた名札が置かれていたのに、私の席の名札だけ二つ折りにして氏名を手書きした白いカードだったことである。

 ともあれ食事は和やかな談笑のうちに進んだ。メイン・ディッシュはロースト・ビーフであった。食事が終わると参会者は別室に導かれ、コーヒーや食後の酒が供された。一頻り歓談の後、一同はイギリス大使に挨拶して辞去したのである。

 その日の午後は会議がなかったので、翌日午前の会議の際、私は開会前に議長席に歩み寄り、前日昼食会で会えなかったのは残念だったと述べた。ところが議長はきょとんとした表情で私を見上げ、あなたは一体どこの昼食会に出席したのかねと尋ねたのである。私は飛び上がった。私は議長の招待をすっぽかし、招待を受けていないイギリス大使の昼食会に出席してしまったのだ。二人の大使に平謝りに謝らなくてはならない結果になったことはいうまでもない。ニュージーランド大使の公邸は、同じ通りをさらに数百メートル進んだところにあったのである。

 イギリス大使は会議に出席していた次席が私を昼食会に招いたのだと思い、大使秘書は大使が直前になって私を招待したのだと思って急遽席次をアレンジし直したり、私の名札を用意したりしたのだという。名札の件を除き昼食会の始めから終わりまで、突然の闖入者である私に何の違和感も抱かせず、従って自分の思い違いに気づかせなかった大使以下の対応振りは見事という他はない。私はイギリス外交の伝統の一端を垣間見た思いで、密かに感服の念を新たにした。とはいうものの、これは甚だしく外交儀礼に反する失態であり、褒められた話ではなかった。当時は誰にもこの事件について口にすることができなかったのである。

春の椿事

 私は1993年に外務省を退官後、日本大学法学部に外交史担当の専任教員として任用を受けた。同時に「国際関係と外交」を主題とするゼミを担当した。しかし、70才で教授の定年を迎え、非常勤講師になるとゼミの担当がなくなるので、私のゼミは六期生の卒業とともに消滅した。在籍したゼミ生は一部、二部を合わせて120名ほどに過ぎなかったが、その代わり最年長者と最年少者の年令の差が少ないこともあって、ゼミ生OB、OGの纏まりが良かった。やがて俊桜会と称する旧ゼミ生の懇親グループが発足し、毎年定期的に会合して食事を共にすることになった。出席者は平均して15名ほどであるが、この会合は、私の教授退任後15年を経た今でも続いている。毎年11月の土曜日に昼食会を開く慣行が定着して何年にもなる。

 全員が卒業してしばらくすると、ぽつぽつ結婚するものが出てきた。ゼミ生同士の結婚もすでに四組を数えている。ある年の三月か四月、一通の結婚披露宴への招待状を受け取った。新婦の氏名はかつて小林ゼミに名を連ねていた女子学生のものだった。私は独りで出席する旨返事を送り、当日、会場に指定された横浜のホテルに赴いた。

 ホテルの廊下で私は家内の妹夫婦に出会った。聞けば同じ披露宴に出席するところだという。私は義妹の主人が新郎の縁戚にでも当たるのかと思い、これは奇縁だなと思った。しかし、良く良く聞いて見ると、出席しようとしていたのは私のゼミ生だった女性のではなく、家内の従妹の結婚披露宴だったのである。家内の従妹は、私が披露宴の新婦だと思い込んでいたゼミのOGと同姓同名だったのだ。家内の従妹は結婚して長いこと当時の夫の姓を名乗っており、その後離婚して実家の姓に戻ったというややこしい事情もある。ゼミの女性と同じだったのは実家の姓であった。招待状の封筒の裏には従妹の氏名とともに住所も書いてあった可能性があるから、家内が見れば分かったのかも知れないが、ゼミのOGだと思い込んだ私は、多分家内に招待状を見せることもしなかったのであろう。

 ともあれそういうことならこれは私より家内が出席すべき宴席だったのであるから、新郎、新婦に家内の不参加の理由を説明しないわけにはいかなかった。その結果私は満場の爆笑を買う羽目になり、身の縮む思いがした。春の椿事であった。

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