第22回「借金」

元駐タイ大使 恩田 宗

東北大学付属図書館の所蔵している漱石の蔵書・書簡・書付などが江戸東京博物館で展示されたことがある。その中に金銭貸付簿があった。見ると漱石がお金を貸した相手の名前、金額、日付が几帳面にしるされていた。開かれていた頁の年には17人に対し1回10~30円程度の貸付を20回行なっている。相手は親戚や知人とおぼしき人達で「矢田の婆さん」などという借り手もいる。それに漱石の門下生3人(小宮豊隆、森田草平、鈴木三重吉)である。しかしきちんと返済しているのは小宮豊隆ほか2人だけでその他門下生を含む14人は借りたまま返していない。その年は250円の貸し越しである。漱石が「大学では講師として年俸800円を頂戴していた(が)・・(それでは)到底暮らせない」と言って東京朝日新聞に移った(明治40年2月)ばかりの頃だった。月給200円と収入は増えてはいたが250円は小さい額ではない。それでも貸し手も借り手もあまり問題にはしなかったらしい。社会的地位のある者と彼に縁のある困窮者とは金の無心はされて当然して当然だったようである。

落語家の五代目志ん生は漱石より一世代後の人だが人生の出だしは極めつきの貧乏で借金の踏み倒しや夜逃げを繰り返したという。それでも大事にならずなんとかしのげたようである。その頃の大晦日の寄席は家に押しかけてくる借金取りと顔を合わせずに年を越そうという人達で一杯だったらしい。借金の達人の志ん生は落語の枕で「大晦日越すに越されずなんて言ったって元日は来ちゃうんですから越してしまうんですな」などと話している。万事が鷹揚で借金返済の督促もまだそれ程厳しくなかったらしい。家長と一族縁者、大家と店子、親方や師匠と弟子、先生と門人、店主と使用人などの社会制度がセイフティー・ネットの機能を果たしていたのである。

そうした古い制度が壊され個人は自立し自由で平等ということになったがいざという時泣きつくところが無くなってしまった。その代りサラ金やヤミ金融業者(東京だけで約5,000社)に行けば手軽に貸してもらえる。反面債務返済の追及は組織化されていて厳しいらしい。電話による頻繁な督促に始まり勤め先や家庭を訪問したり暴言・暴行・脅迫など過酷な手段を使ったりもする。人によってはホームレス化や自殺に追い込まれる。

少し前の統計だがサラ金の利用者1,900万人の内返済困難に陥っている多重債務者は150~200万人と推定されている。自殺者はピークだった2003年の34,400人から2014年の25,400人へと減少しホームレスも全国で2003年の25,300人から2007年の18,600人へと少なくなっている。しかし問題は依然深刻で自立自由平等の代償だとしても厳し過ぎるように思う。