最近のフィジー情勢

駐フィジー大使 花谷 卓治

金メダル

 フィジーにとって初めてのオリンピックメダルは金色だった。リオオリンピックで初めて競技種目に採用された7人制ラグビーでの殊勲だ。これはフィジーのみならず、太平洋諸島全体にとっての快挙だ。なぜなら、これが太平洋の島国にとって初のオリンピック金メダルとなったからだ。

 もちろん、英連邦諸国間の競技大会ではいくつかメダルを獲得しているし、前回ロンドンパラリンピックでフィジーは金メダルを獲得している。子供の頃事故で片足切断したイリエサ・デラナ氏は、障害種別F42というクラスでハイジャンプに挑み、174センチメートルを跳んで優勝した。凱旋帰国のときは国家元首級の栄誉で迎えられたという。そのデラナ氏はJICAの帰国研修員でもある。2008年に「障害者のスポーツを通じた社会参加」コースに参加していた。現在はバイニマラマ政権の青年・スポーツ省の副大臣を務めている。太平洋島嶼国にとっては、これがオリンピック、パラリンピックを通じて初の金メダルとなる快挙だった。(JICA東京・人間開発課・定家陽子氏「JICA東京の帰国研修員がロンドンパラリンピックで金メダルを獲得!」参照) 

 このようにパラリンピックではすでに金メダルを獲得していたが、オリンピックではまだメダルがなかった。

 ラグビーはフィジーの「国技」と言ってよい。7人制ラグビーでは世界ランキング1位、15人制でも現在10位だ(日本は7人制では15位、15人制では12位)。子供たちは小さい頃から至る所でラグビーボールを持って走り回っている。こうした環境で育つフィジーのラグビー選手は豪州、ニュージーランドのみならず、欧米諸国、日本など世界各地で活躍している。

 2013年秋に英国からベン・ライアン氏をヘッド・コーチに迎えたフィジーの7人制ラグビーチームは、2014-15年のワールドシリーズで見事に優勝を果たし、初のオリンピックメダル獲得を目指してリオに乗り込んだ。予選リーグ3戦全勝でグループAの1位で決勝トーナメントに進むと、準々決勝戦でニュージーランドを12対7、準決勝戦で日本を20対5で下し、決勝戦では英国を43対7と突き放して優勝した。

 英国のアン王女から金メダルを受けるとき、表彰台のフィジー選手たちはみな跪いてメダルを首にかけてもらっていた。英国王室に対する敬意を表す作法が印象的だった。

 日本は予選リーグ初戦で強豪ニュージーランドを14対12で破る歴史的大金星をあげた。英国には19対21で惜敗したものの、ケニアを31対7で下してCグループ2位で決勝トーナメントに進むと、準々決勝では12対7でフランスを倒した。準決勝でフィジーに敗れた後、3位決定戦では南アフリカに14対54で敗れ、惜しくも銅メダルを逃したが、世界の強豪を相手にベスト4入りは立派な成績だ。世界ランキング15位の日本がここまで健闘すると予想した人は少なかったのではないか。 そして、この日本代表チームの選手12人の中にはフィジー出身選手が二人いて、チームの躍進に大いに貢献したことも忘れてはならない。副島亀里・ララボウ・ラティアナラ選手とトゥキリ・ロテ選手だ。二人とも日本国籍を取得しており、今後とも日本代表チームの一員として活躍が期待される。

 2015年ラグビーワールドカップで日本が強豪南アフリカを倒す歴史的大金星をあげたとき、「ラグビーの歴史を変えた」として世界中から称賛されたことは記憶に新しい。昨年の大金星に続き、今年はリオでニュージーランドを倒す大金星をあげたことで、日本ラグビーを見る世界の目は変わってきている。ラグビーを「国技」とするフィジーで日本の株が大いに上がったことは言うまでもない。昨年のラグビーワールドカップの日本代表チーム主将リーチ・マイケル選手はニュージーランド生まれだが、母親はフィジー出身だ。だからフィジー人は彼のことを半分フィジー人だと思っており、日本の勝利を自分たちの勝利のように喜んでくれるのだろう。

 昨年のラグビーワールドカップ後、15人制ラグビーの世界ランキングは日本10位、フィジー11位と日本がフィジーの上位にいた。このことを天皇誕生日レセプションで紹介したとき、フィジー人たちは驚き、大いに悔しがったものだが、同時に日本の活躍を喜び祝福してくれた。

 2019年ラグビーワールドカップと2020年東京オリンピック・パラリンピックでは、日本代表チームはさらに強くたくましくなっているだろう。フィジー代表チームを迎えてどのような活躍を見せてくれるのか、今から大いに楽しみだ。

国旗

 選手たちがリオから凱旋帰国した日の翌8月22日(月)は急遽国民の祝日とされ、国中がお祭り騒ぎとなった。首都スバでも凱旋パレードが行われ、競技場では盛大な歓迎式典が催された。競技場の大スクリーンでは、リオでのフィジーの全試合、全得点の場面が流され、国民は改めて勝利の美酒に酔った。代表選手12名とコーチ陣には大統領から勲章と金一封が授与された。国民たちは大小多数の国旗を振って、国のヒーローたちを称えた。競技場の観客席はオーシャン・ブルーの旗で埋め尽くされ、大波小波がうねっているように見えた。車も国旗をひるがえして走り、町中に国旗が溢れかえった。国民たちがこれほど国旗を振り喜びを爆発させたのは、国民的ヒーローたちの凱旋に加え、その数日前にバイニマラマ首相がリオデジャネイロから声明を発表し、フィジーの国旗変更方針を取下げたことも関係していたに違いない。現在の国旗に愛着を持つ国民が、この国旗を当面維持できることに安堵し、正直に喜びを表わしているようだった。

 2013年1月の段階でバイニマラマ首相は国旗変更方針を発表していたが、その翌年の総選挙や新たな議会制度発足などで多忙を極め、国旗変更の話は一時わきに置かれたように見えた。しかし、2015年になり、新しい国旗の図案の公募や選定方法など具体的手続きが示された。やはり新しいフィジーには新しい国旗がふさわしいというのがその理由だ。確かに共和国であるフィジーの国旗に旧宗主国である英国の国旗を残す必要はない。英国女王はもはやフィジーの国家元首ではない。1970年に英国から独立したフィジーは、1987年の2度にわたる軍事クーデタを経て共和国となった。それから30年近くも国旗にユニオンジャックが残されてきたのは不思議と言えば不思議だ。新しいフィジーにふさわしい国旗に変えたいという理屈はもっともだ。しかし、公募で集められ国民に紹介された新しい国旗の図柄の評判はどれも今一つだった。何より国民は独立以来慣れ親しんだ国旗に愛着を感じていた。国民はこの旗を振ってフィジーのチームを応援し、この旗で初の金メダルを祝福したばかりだ。その国旗を変更しなくてよいことになったのだから、国民の喜びは倍化したに違いない。

 フィジー人はもともと(豪州ではなく)英国の統治を受けたことに誇りを持っている。だから共和国となっても国旗にユニオンジャックを残すことは全く気にしないし、むしろ誇りに思っているくらいだ。

英国との歴史的関係

 そもそもフィジーが英国の統治下に入ったのは、1874年、当時のフィジーの大酋長(王)ザコンバウが英国のヴィクトリア女王に自ら進んで移譲したことによる。フィジー人にとって、当時のヴィクトリア女王は自分たちを保護してくれる大酋長の一人に思えたのではないか。

フィジーは伝統的酋長制社会の国だ。小さな村の酋長から、国全体を3つの地域に分けて君臨する3人(注:現在1つは空席)のパラマウント・チーフ(大酋長)に至るまで、階層的な酋長社会ができている。英国君主制度への親近感が高いのは、このようなフィジーの伝統的社会構造とも関係があるのだろう。

 現在でも大統領官邸の壁には英国のエリザベス2世女王陛下の肖像画が掛けられている。議会で財務大臣(現在は経済大臣)が3時間近くかけて政府予算案を読み上げるのも英国の伝統らしい。モーニング・ティーやアフタヌーン・ティーの習慣がある。最近見かけることが少なくなったが、つい最近まで紙幣や硬貨には英国女王陛下の肖像が使われていた。フィジー陸軍の最大の駐屯地は現在でもクイーン・エリザベス・バラックという。クィーン・ヴィクトリア・スクール(QVS)にアルバート・パーク、キングズ・ロード、クイーンズ・ロードにクイーン・エリザベス・ドライブなど植民地時代の名称はあちこちに残されている。

 英国軍が1961年に英連邦諸国から兵士を募集し採用を初めて以来、フィジーは英国軍に兵士を送り続けている。現在約1400名のフィジー出身者が英国軍で勤務しており、これは英連邦諸国からの兵士全体の過半数であるというから、フィジーの占める比重の大きさがわかろうというものだ。約3500名のフィジー国軍と比較しても相当な人数だ。