「スーチー政権」の実績と展望:ミャンマー政治のパラドックス
熊田 徹
元在ミャンマー大使館参事官 元アジアアフリカ法律諮問委員会事務局次長
はじめに
昨年11月のミャンマー総選挙で圧勝した、アウンサン・スーチー女史のNLD(国民民主連盟)政権が今年春に発足してから半年がたった。1988年の反政府デモ以来祖国ミャンマーの民主化運動指導者として野党NLDを率いて苦節28年、ついに政府与党に勝利して文民政権を率いることとなったが、現行憲法上は大統領ではなく、「国家顧問」という肩書だから、この政権を「スーチー政権」と呼ぶのは、建前上不適当かもしれない。だが、特異な歴史的経緯ゆえに一種パラドックス的構造を有する同国の政治的、法制的現状を考慮するならば、それが最も実態に適した表現だと思える。
いずれにせよ、スーチー女史のカリスマと国際的名声に頼って四半世紀間を過ごしたNLD のこの政権は、政権運用経験も人材も殆ど有しないので、政権獲得後も女史個人の能力に頼るしかなく、当初は国内外から「専横的民主主義」などの言辞が贈られた。組閣での人選に行き詰まり、4つもの大臣ポストを兼任したことについては「己を知り責任分担を」ともコメントされた。選挙後、与野党間で行政部の引継ぎチームが一応の準備をしていた筈とはいえ、主な政策決定はすべて女史の下達を待つのがNLDの習慣だったので、国民や外部の目で見れば無理もない批判だったといえよう。
他方、経済計画の詳細などは9月末時点では依然未公表の状態ではあるものの、米国の経済制裁がほぼ全面解除とされたことで(10月7日に実施)、国政の局面が大きく動いた。ミャンマー国家にとっても同女史にとっても最大の課題である全国民的和解問題で女史は、8月末に「21世紀のパンロン会議」を立ち上げてその初会合を主催し、外交面でも外相、国家顧問の肩書のもとで活発に動いて、大きな成果をあげた。膨大な数のミャンマー人移住労働者がいる隣国タイへの3日間の訪問での「首脳会談」を皮切りに、中国訪問、ASEAN 首脳会議出席、米国訪問等の「首脳外交」にも成功した。時と共に、同女史を「国家顧問」兼「事実上の指導者」などと呼ぶ例も増え、ミャンマー首脳としての女史の国際社会での地位は確定したといえる。
大統領の上に立つ指導者
周知のとおり、スーチー女史はかねてから、軍人中心主義の現行憲法改正を民主化実現の前提と位置づけてきた。そして、憲法第59条(f)項が女史の家族が外国籍だとの理由で自らが大統領就任の可能性を封じていることを不満とし、昨年総選挙投票日の直前にあたる11月5日の内外記者会見では、現行憲法を“sillyな(訳のわからない)“ 憲法とさえ表現して、「国民多数の支持さえあれば憲法改正などマイナーな問題」とも述べていた。しかし、選挙での地滑り的勝利に続く政権移行後は、議会での25%の軍人賛成票と国民投票での50%の支持を必要とするだけでなく、軍との対立を強めかねない、この憲法改正を慎重に回避する方向の模索に転じた。そして、憲法第217条の解釈に基づき、与党NLDが現在の同女史肩書である「国家顧問」なるポスト新設のための法案を、軍人議員達全員の反対を押し切って圧倒的多数で採決し、実質的な最高指導者としての地位に就いたのだった(この217条は国軍指導部が万一の場合に備えて挿入していたものといわれ、ミャンマー政治の特異性を反映したもののようである)。それは昨年11月5日に内外記者団に表明していた、「大統領の上に立つ」との強い意思を実現したもので、大統領には小学校時代の後輩で同女史に忠実なNLD 党幹部であるティン・チョー氏が、国会で選出された。
政権発足以降2か月ほどの間の状況は先に触れたとおりだが、その後、スーチー女史は8月の中国訪問で国家最高指導者に準ずる待遇を得、ミッソンダム建設問題などの両国間主要案件についても有利な方向性を確保した。このことは、西の隣国インドの対ミャンマー政策にも玉突き反応を引き出し、同国の対ミャンマー外交を多少とも積極化させた。9月にはラオスでのASEAN関連首脳会議出席し、それに続く訪米中、国連での演説前にオバマ大統領との一対一の「首脳会談」に臨み、対ミャンマー経済制裁のほぼ全面的な解除や今後の協力関係強化に関する共同声明を発表するなどの成果を挙げた。これらの実績により、女史のミャンマー国家の実質的指導者としての地位が国際社会でも事実上確立した。
このようにしてスーチー女史を国家指導者とする文民政権が発足し、本格的なミャンマー民主化過程の第一歩が踏み出された。しかしそれは、独立以来ずっと軍事化が続いてきた政治秩序から抜けだし得ないでいる同国での、軍人優先憲法の改正という難問を回避したからこそ、実現し得たのだということであろう。それはまた、現在のミャンマー政治のパラドックス構造を示す代表的な事例として受け止め得よう。
規律ある民主主義への努力
スーチー女史は、新年休み明けの4月18日に、「民主主義実現のためには憲法改正が必要」とか「軍人起案の憲法は人々を傷つけるから憲法は改正すべき」などとの基本的信念を表明する一方、「国内の和平に差支えるような形での改憲はしない」とも述べていた。5月末ケリー米国務長官がミャンマーを訪れた際も、国軍への制裁解除と「ロヒンギャ」などの問題が、「民主化のための憲法改正」の論と共に取り上げられたが、同長官はその後ミンフライン国軍総司令官とも会った。ワシントンではその直前に、ローズ安全保障担当大統領副補佐官が「国軍の役割は完全な民主化達成まで続く」との見通しを述べており、6月に入ってから、ミャンマー下院議長も「憲法改正は国内和平達成後」と言明した。
こうした流れの中で、スーチー女史は7月のアウンサン殉難記念日にミンフライン総司令官と並んでアウンサン廟に参詣し、同総司令官が女史の自宅を訪ねるような身近な人間関係を築いた ― その後女史と総司令官との間には非公式の連絡チャネルができたとする報道もある。そして9月、オバマ大統領に対するミャンマー経済復興支援申し入れの形で、国軍関連企業やその関係者等111件の制裁解除を含むほぼすべての対ミャンマー制裁の解除(麻薬関連は除く)や米緬軍事協力等々の、新時代をめざす協力関係構築に合意し、共同声明発表にこぎつけた。
民と軍それぞれのトップ間の上記のような実際的関係の緊密化は、「パーソナリティ・ポリティックス」が優越するミャンマーでは大きな意味を有する。一言でいえば、従来モラリスト的傾向が強かった女史が、時の流れとともに、その重責遂行の必要上、柔軟な実務的政治家の顔を鮮明に示し始めたのだと解し得る。8月の中国訪問での外交的成功を、内外紙はそのような表現を用いて報じていた。
内外の報道で見る限り、憲法改正問題の今後についての女史自身の明確な考え方はまだ必ずしもはっきりしておらず、「21世紀のパンロン会議」との関連でも様々の見方があるようだが、ひとつ思い出されることがある。それは、2012年の補欠選挙で大勝したスーチー女史が4月の議員就任宣誓に際して、宣誓文では憲法第6条が規定する「連邦の基本原理」中の二つの原理「・・・のために献身することを『遵守する』」と書いてあるのを、『尊重する』に変更するよう主張したことである。結局『遵守する』との本来の文言で宣誓したのだが、この二つの原理とは、同条の基本的原理6項目中の冒頭の、「連邦国家の分裂排除(non-disintegration of the Union)」と「全国民的連帯の分裂排除(non-disintegration of National solidarity)」とであった。
この「分裂排除(non-disintegration )」とのもってまわった表現はいかにもギコチないが、これをnonとdisとintegrationの三つの部分に分けてみると、その論理構造がハッキリする。先ずnonは反対、否定ないし排除であり、disは非ないし不だから、nonとdisで二重否定、integrationは字義通り統合、統一である。要するに連邦国家や国民的連帯の非統合状態、あるいはそれらの統合を妨げる行動を「無くす」、あるいは「排除する」との趣旨であって、NLDを含めて 一般的に用いられている「国民和解=national reconciliation」と同じ行動目標概念なのだといえる。他方それは、軍事政権側からすれば秩序破壊防圧の趣旨であるのに対し、長年反軍事政権闘争に従事してきた野党ないし民衆の側からすれば、反対派弾圧の口実と聞こえても不思議ではない。要するに、立場の相違が極端に際立ってしまう、同床異夢的用語法だといえる。英語のcrackdownが、第三者的立場からは、当局による不法行為や暴動の「取り締まり」にも、デモなどの「弾圧」にも用いられ、あるいはそう解し得るのと似たところがある。
女史は2012年6月、オスロでのノーベル賞受賞演説で「民族間和解」の必要を訴えて「国民としての精神」にも触れ、「ミャンマーでの平和の概念は、調和と全体性とを妨げる諸要因からの脱却にある」と説いていたが、その際の民族間和解や平和をintegration=non-disintegrationと置き換えてみれば、少なくとも論理的にはそうかけ離れた概念構造ではないように思える。野党たるスーチー女史・NLDと諸民族及び国軍が起案した現行憲法との関係は、いわば三角関係に似た構造に近いといえよう。
いずれにせよ、女史は現時点では反政府強硬派の野党ではなく、政権指導者として、下記のような全国民的和解プロセス、すなわち「21世紀のパンロン会議」を自ら立ち上げ、この会議の枠内で国軍の協力を得ながら会議の運営とその実施に取り組むこととなった。つまり、基本的には現行憲法の枠内での和解達成の責任を担う立場を自ら担ったたわけである。それは同時に現行憲法規定をも遵守する立場であり、上記の理念的な立場を「実際」に適合させるような整理が求められる。
要するに、不法経済や国外勢力に依存する少数民族の反政府武装勢力が跋扈するミャンマーの現状では、行政府は強力な秩序維持能力を備えた、クラックダウン(crackdown)組織たる国軍を手放すことはできず、それゆえ多数決でもって押し切るような形での憲法改正選択の余地はもはやあり得ない。つまりそれは、憲法第6条の基本原理d項と同第39条が規定する、「真の、規律ある複数政党制民主主義の興隆」を選択する、ということでもあろうと解し得る。
「21世紀のパンロン会議」
国民和解問題に関する実際的側面に目を向けると、次のような、民族的、政治的、経済的に幾層にも重なった、実利面での厳しい対立要因が目立つ。たとえば、北部のコーカン族は国境の中国側、雲南省の同族との血縁関係や国境沿いの町ムーセ等を経由する密貿易を通じて、ミャンマーとよりも中国寄りの利害構造を持っており、そもそもその殆どがミャンマー語を解しない由である。19世紀頃まで首狩り族として恐れられていたシャン州のワ族は、植民地時代からケシ栽培・阿片交易を主産業としてき、冷戦時代には蒋介石の国府軍系勢力下に置かれたり、ビルマ共産党~中国共産党の支配下に入ったりして、コーカン族同様その勢力基盤を移してきた。現在は中国に依存し、その2万以上の兵力の武器は中国から得ている由である。カチン族も植民地制下以来主要なアヘン生産者で、ワ族やコーカンと似た境遇にあったが、広大なカチン州は最近特に大きな話題となっているヒスイ鉱山のほか、エヤワディ川上流での360億ドルのミッソン水力発電所建設計画の所在地でもある。その電力の90%が中国向けという収奪的な契約内容に加え、恐るべき環境破壊をもたらす可能性があり、すでに大規模の違法砂金採掘で汚染と破壊が進んでいる由である。これらや数十年前から続く事実上無法状態に近い国境貿易等の関連でも、人口流入があり、これらを含めると、中国からミャンマーへの不法移民数はミャンマー総人口の2~3%(つまり100~150万人)に達する由(ミャンマー政治学の権威者D.スタインバーグ教授が引用した推計)である。
古くからの仏教王国で18世紀にミャンマー王朝に征服された現ラカイン州住民の間には独立回復・反ビルマ族の心情が根強く、ミャンマー独立前後の時期にも分離独立を志す人士の運動が続いていた(ムジャヒッヅと呼ばれたグループなど)。1947年のパンロン会議には招待されておらず、現在でも一部分子による反政府武装組織が国軍との間で武力抗争を続けている一方、宗教対立に起因する州内部の政治抗争も続いており、事件が絶えない。「ロヒンギャ」の問題でも国際社会の注目を浴び、スーチー政権非難の種となっている。また、ベンガル湾の化石燃料資源とその中国向けパイプライン・鉄道輸送路の起点でもあるチャウピュウ経済特区など、巨大な中国権益の所在地でもある。このようなラカイン州は他の州とは異なる、複雑な問題を抱えているので、スーチー女史が特別の委員会を設けて、アナン元国連事務局長にその委員長を依頼したのはきわめて優れた措置だったと考えられる。同州のロヒンギャ問題はその特異な背景にもかんがみ後程、改めて触れることとしたい。
以上のような武装組織中の8つ以上が、昨年10月にテインセイン政権が開催した全国和平会議をボイコットし、今回も政府・国軍側の非武装化要求を蹴って出席をしぶっていた。前記スーチー女史訪中の際に、これらのうちの3組織が習近平主席の手配により同会議への招待に応じる姿勢を示したものの、その後のイザコザでワ族のUWSAは初日のみで退席、他については政府・国軍側が武器問題ゆえに招待しなかった。
「21世紀のパンロン会議」は諸政党なども含め700組織・団体、1,600人が集まり、各代表約700人が10分ずつその政治的立場を述べ、その様子は国民にTV放映された。欧米紙では「シンボリックだが効果は疑問」との評価だったが、ミャンマータイムズなどは、スーチー女史の締めくくり演説を紹介しつつ、「少々不足はあったが、画期的な第一歩」だったと評価した。私もそのとおりと思う。第一に、このように幅広い全国民的対話ないし情報・意見交換の場を持ち、それが映像を通して国民一般に公開されたのはミャンマー史上初めてではないだろうか。手続き的には公正だったものの政策論も各種の問題点の議論も回避し、人気投票に等しかった昨年の選挙の欠陥を大幅に補ったといえる - よく考えてみれば、ミャンマーのような複数政党制選挙の経験が僅かで、正確な関連情報も十分行きわたっていなかった国民間での効果的な政策論争はそもそも無理だったともいえる。上記TV放送が「国民和解」ないし「全国民的連帯の分裂排除」に関する具体的な問題点について、国民の側の実態理解をどの程度深めたかはともかく、ミャンマーの国民が今後に向けて把握しておくべき、複雑で幅広い問題点を、仮に表面的にせよ、知るきっかけが提供されたことの意義は大きいと思われる。
スーチー女史は、同会議開催が準備不十分で早すぎたとの批判に対し、むしろ遅すぎたと反論し、過去を恨む発言があったが未来に向けて考えよう、と呼びかけ、国民全般の対話参加を促した。民族代表の相当数が連邦制そのものよりも自治権優先を志向し、また憲法改正を主張した中で、議会内の反政府強硬派民族組織連合体たるUNFCは、現在の「7州7地方」制の行政組織の14州制への編成替えと現行憲法改正とを、和平と連邦形成との前提条件とする、厳しい主張を行った。
一方、この歴史的会議の交渉枠組みを検討していた委員会は9月中旬、議事内容を民族問題(エスニシティ)、地方制度、国民全体との3つに区分し、更に分野別テーマを、政治、安全保障、経済、社会問題、土地と自然資源管理、その他一般の、6テーマとするなどの議題設定と、会議開催を6か月に1回とし、計3回の会議で交渉を終えるとの、会議開催日程枠組み草案を、1か月以内にまとめる旨を発表した。これにより、21世紀のパンロン会議と銘打った「全国民的和平交渉」は、とりあえず、ほぼ1年半をかけて行われる見通しとなった。
しかし、仮に1年半後に「全国民的合意」が達成できたとしても、その実施について確かな担保がなければ、画餅に帰しかねないとの問題は残るだろう。具体的にカチン州やコーカン族、ワ族の居住地域で見れば、夫々の場所と住民の生活基盤を、ヤミ経済から正統で持続性のある産業社会構造に移し替えるにはおそらく2年以上を要するだろう。スーチー政権の残り4年半で、上記合意とその効果的実施が可能か、合意順守の意思のみならず、その担保となる経済・社会基盤構築のための資金や技術、外部経済社会との調和的交易圏の確保等々、多くの課題が待っていよう。そしてこの間の安定的秩序も現国軍に依存せざるをえない可能性が高い。国連組織等、国際社会の支援も期待し得ようが、先ずは自助努力が必要だろう。国軍や国軍関連企業の腐敗構造の改革についても、機微な経緯など、国軍関係者、とくに清廉派とされるテインセイン元大統領などからのお知恵拝借や、高度の政治技術的支援が役立つかもしれない。先般ミンフライン総司令官が自分の任期を5年間延長するとの意思表示をしていたのは、この辺の見通しと関連があるのかもしれない。
「ロヒンギャ」問題:現代のアポリア?
「ロヒンギャ」を自称するイスラム教徒が実に気の毒な状況に置かれていることは周知のとおりである。だが、その国籍や民族的、法的位置づけがきわめて難しく、したがって、日常生活や福祉の面での処遇が不十分のうえ、人身売買や海上遭難などの被害も受けている。にもかかわらず、救済策が困難を極めている。ラカイン州住民、とくにイスラム教徒との紛争事件が絶えない仏教徒は、これらの人々を「バングラデシュからのベンガル人不法入国者」として嫌っている。現在ミャンマーにいるこの人達の正確な数字は不明で(無国籍のイスラム教徒数100万人との推計もある)、ラカイン州には80万ほどの人々が難民として滞在しており、国際世論はその処遇が悲惨な人権問題として、スーチー政権を非難しているのだが、政権は米国大使館が「ロヒンギャ」とのコトバを用いること自体に反対している。私自身は、あるきっかけで「ロヒンギャ」という人間集団の実態に関心を抱いて、その名称の民族の存否や名称そのものの起源を調べたことがある。だが、信頼し得る研究者の著作で部分的なデータが得られたものの、それ以上の結果は得られなかった。逆に専門的研究者でさえ、珍説を展開しているのに遭遇したことがある。したがって、ミャンマー政権のこの態度には納得できる。
一方、スーチー女史は国家顧問として6月に「ロヒンギャ」などについての具体的問題とその対策案検討の委員会を立ち上げ、8月24日、アナン元国連事務局長を「ラカイン州諮問委員会」(ラカイン州の仏教徒2名、ヤンゴンのイスラム教徒2名、政府関係者2名、外国人3名、計9名)の委員長として委嘱した。同委員会は約1週間の調査を行う予定だったが、ラカイン州住民の多くが、委員の3名が外国人であることを「主権侵害」として抗議し、州議会は委員会そのものに対する不承認の決議を採択した。調査活動に対しても、多数の住民がデモなどで妨害した。アナン委員長は委員会の調査目的は人権問題ではなく、問題の根本原因を探り開発協力(いわば人間の安全保障の概念のような内容)のための総合的な対策の在り方を助言することだと説明したが、聞き入れられず、調査不十分に終わった様子である。
一方、バングラデシュ首相は9月下旬、この問題で既にスーチー国家顧問とも協議して32,000人のロヒンギャ難民を受け入れたとするなど、協力姿勢を示す傍ら、両国間国境沿いに282キロメートルの有刺鉄線建設計画も発表した。「ロヒンギャ難民」については昨年5月、タイで関係19か国(オブザーヴァーとしての米国、日本を含む)の参加を得て国際的な対策会議が開かれたが、会議内容は公表されていない。
おわりに
ミャンマーの諸問題は、「ロヒンギャ」の例のように、判りにくい面がかなりある。とくに冷戦期や1988年以降の事柄には、機密事項や立場の差ゆえに偏った、誇張法的な情報や誤った認識が生じ、判断や政策に対立や齟齬を生じた例が少なくない。この点について、2011年9月、D.ミッチェル米国政府対ミャンマー政策調整官兼政府代表(前駐ミャンマー大使)は、ミャンマーを訪問してスーチー女史を含む幅広い関係方面の人々と意見交換した後の記者会見で、米国の対ミャンマー政策には「懐疑派の過ち」で政策対立があったことを認めた。そして、これを是正するための「パラメーター」調整の必要を指摘したうえで、米国とミャンマーの関係者との間では「人権、民主主義、和解、開発」の4目標が共有されている、との趣旨を述べた。それから5年、「スーチー政権」と国軍の関係者、連邦議会議員達との間でも、この「4つの目標」共有化への努力が進み、新たなミャンマー国家形成の過程が踏み出されつつあると見受けられるのは、頼もしい限りである。
この過程の中で日本が果たす役割は、伝統的な日緬友好関係を反映して、重要な位置を占めている。とくに極めて困難な少数民族問題への対策については、笹川陽平氏が2012年にミャンマー少数民族福祉向上大使に就任し、更に翌2013年にはミャンマー国民和解担当日本政府代表に就任され、すでに触れたような難問に取り組んでおられる。また、JICAの経済計画専門家グループは、ミャンマー政府庁舎内に作業室を供与されて、大奮闘している由である。多少の御縁で日本人の一人としてミャンマーの平和と発展に関心を抱いてきた私としては、笹川政府代表の御尽力に改めて敬意を表するとともに、JICAその他の関係者の方々のお仕事とも合わせて、その御成功を心から祈念している。
(2016年10月10日記)