ブラッセルから見たBREXIT(英国のEU離脱)問題

植田 隆子
植田 隆子 国際基督教大学教授 EU代表部元次席大使

 英国の国民投票の直後の本年7月7-13日及び9月18-24日にブラッセルでBREXITについて、顔なじみのEU官僚、EU加盟国の代表部、NATO国際事務局、現地の大学やシンクタンクに勤務する研究者と意見を交換する機会があった。

 日本の識者の中には、離脱するとあまりに損失が大きいことが英国にわかり、考え直し、結局は留まるのではないかという見方もあるが、9月下旬のブラッセルでは、HARD EXIT論しか聞かれなかった。HARD EXITは、英国にとって厳しい離脱となる、とくにEUの共通市場から英国は完全に出てしまうことを意味する用語である。英国政府が何ら方針を定めていなかったにもかかわらず、ブラッセルではHARD EXIT論が先行していた。

 10月2日のバーミンガムでの保守党大会でメイ首相は来年3月末までにリスボン条約の離脱条項を発動するとし、HARD EXITでもSOFT EXIT(共通市場に留まる)でもなく、ノルウェーやスイス方式とも異なるEUとの新たな関係を求めるとした。

 ブラッセルでのHARD EXIT論の根拠は、英国の内政の視点から、向う5-6年間は保守党政権が続くとみられ、人の移動に関して英国側が折れる可能性がないとみなされることから、英国は共通市場から出ざるを得ないとする。「人、モノ、資本、サービス」の自由移動は共通市場の根幹であり、一つの国であるかのように機能させるための条件である。つまり、英国が共通市場にアクセスをはかるのであれば、人の自由移動を減じることは認められないという主張がなされ、たとえEUの27加盟国が英国のHARD EXITによって不利益を被っても、共通市場へのアクセスについては英国に有利にはならないとの観測がなされている。

 日本政府が9月2日に発出した「英国及びEUへの日本からのメッセージ」は、フィナンシャル・タイムス紙もいち早くコメントし、ブラッセルでも話題を呼んでいた。私はベルギーの国際政治学者の提案で、1998年からブラッセルで日本とEUの協力に関する年次日EU会議を共催しており、9月23日に19回目の会議を開催したが、その準備で登壇者などにもこのメッセージを配布した。日本はあまり直截的な表現を使わない国というイメージがあるため、驚きや共感が示された。この会議の基調講演者のベルギーのペーテルス副首相は、講演の中で、このメッセージの内容を高く評価した。(日白関係や欧州統合をめぐる講演原文は追って以下のサイトに掲載されている。http://www.eias.org/news/19th-japan-eu-conference/

日本企業は損失を防ぐために、即刻、英国を出るべきだと述べる学者もおり、ベルギーのみならず、フランスやドイツからも、日本企業の大陸への移転に対する期待が寄せられている。

 英国の離脱は英国に大きな打撃を与えることが予想されているが、これまで加盟国が拡大の一途をたどり、今もなお加盟希望国が並んでいるとはいえ、「EXCLUSIVEなCLUB」だったEUにとっても打撃であるとオーストリア出身のEU研究者は顔を曇らせる。筆者は1990-93年、冷戦が終わり、欧州統合が上り坂にあったときにベルギー大使館でNATOや当時は常設機構化されていなかったCSCEなど欧州安保を担当し、再び、ポスト冷戦期の国際秩序の崩壊の始まりだった2008-11年にEU代表部に勤務し、その後もブラッセルには仕事で立ち寄ってきたが、今回は、EU欧州委員会も欧州対外活動庁(EUの外務省組織)もこれまでになく沈んだ雰囲気に包まれていた。他方、ブラッセルはシンクタンクの数が飛躍的に増大しており、米国や独仏などの主要シンクタンクも支所を置いているが、シンクタンク関係者は、英国離脱のために「商売繁盛」と述べていた。

 英国のシンクタンカー、チャールズ・グラント氏の論稿 Theresa May and Her Six-Pack of Difficult Deals(Centre for European Reform, 2016年7月28日掲載、 http://www.cer.org.uk/insights/theresa-may-and-her-six-pack-difficult-deals) は、離脱交渉をめぐる議論で良く引用されている。同氏によれば、英国の離脱をめぐり、6種類の相互に連関する交渉を遂行しなければならない。①英国のEUからの法的な分離(離脱条項が発動されてから2年後にEU関連法規は英国に適用されなくなる。EU側は、2019年6月に予定される欧州議会選挙の前で且つ、2020年に7年間の予算サイクルが終わるため、次期予算交渉開始前の合意が必要とする)、②EUと英国のFTA、③英国が離脱し、FTAが発効するまでの間のEUと英国の間の暫定措置、④英国のWTOへの完全な加盟、⑤EUが域外53か国との間で締結している現行のFTAを英国は53ヵ国との間の2国間のFTAに組み替える、⑥EUと英国との外交安全保障協力(司法・警察協力を含む)の設定。まさに、遠大な交渉になることが予想される。

 ブラッセルからは、離脱によって衰退する英国像しか窺えない。しかし、NATO本部でおめにかかった20年以上も交流してきた英国出身の幹部は「ローマのくびきを切り、英国教会を創設したヘンリー8世の偉業に匹敵する歴史的な出来事」であるとEU離脱による「主権の回復」を評価している。EU以外の世界の国々との英国の結びつきも強調される。

離脱交渉は、英国とEU双方にとって困難な道のりになろう。欧州統合は歴史的には何度も危機にみまわれてきたが、その都度、乗り越えてきた。今回は、英国がEU内でブレーキをかけてきた安全保障面での協力を強化させる提案も出ている。この試練をEUがどのように乗り越えるのかは、国際秩序の変動期にあって、世界的にも影響を及ぼす事態である。(2016年10月2日記)