サウジアラビア、サルマン王制の光と影

中村 滋

中村 滋
元駐サウジアラビア大使

サルマン第七代国王(81歳)が就任(2015年1月)して早一年半余が経過し、その間サウジアラビアを取り巻く国内外の情勢は、イランとサウジアラビアとの外交関係の断絶やサウジ経済の脱石油戦略の策定など大きく変化したが、世間が注目したのはその変化の中心に若干30歳の若き王子の存在があったことである。その名はムハンマド・ビン・サルマン(MBS)王子で、彼は国王の末っ子でありながら2015年4月、ムクリン皇太子の依願退職によりムハンマド・ビン・ナイフ(MBN)副皇太子が皇太子兼第一副首相になることで、突然副皇太子兼第二副首相兼国防大臣に任命された。そして、その後サウジ外交と内政はこのMBSを中心に動き出すことになる。ここでは私見ながらサルマン王制の安定性と外交の問題を、筆者の在サウジ在勤時代(2006年7月―2009年7月)の体験を踏まえて論じてみたい。

 筆者のサウジ在勤は、アブドッラー第六代国王(在位2005年―2015年、初代国王の10男)の統治時代に位置し、当時でもサウジを取り巻く環境はイランの核開発問題、イラク戦争後のイラク・シーア派多数派政権の出現やレバノンでのヒズボッラの伸長などシーア派勢力の影響力が顕著になりつつある時期であり、国内ではアルカイダによる大規模なテロが実行された後の余韻が残り、厳重な治安対策が敷かれていたが、経済面では油価がリーマンショックの際の値下がりのあとは、1バレル90―100ドルを謳歌する頃であった。むしろ内政は、スデイリ家の兄弟、甥に主要ポストをあてることはあっても他の王族にも配慮する姿勢があり、女性の一定の社会進出を許容するなど穏健な統治が内外で評価されていた。換言すれば、国政はアブドッラー国王の指導の下に統率されていたといえる。一方、王位継承に関しては、2011年にスルタン皇太子(15男)が、2012年にはナイフ皇太子(22男)が夫々病死したのを機に王位継承の高齢化問題が論じられたが、結局内政統治に秀でたサルマン・リヤド州知事(24男)が前評判通り皇太子に任命され、副皇太子には夫人が外国人という経歴から王位継承の話題にも乗らなかったムクリン諜報庁長官(35男)が副皇太子になった。これでアブドルアジーズ初代国王(在位1932―1953)の36人の息子(第一世代)の代が王位継承のラインで終焉を迎えることになった。

 アブドッラー国王の逝去(2015年1月)に伴い、予定通りサルマン国王そしてムクリン皇太子が誕生し、関心を集めた第二皇太子に第三世代のムハマド・ビン・ナイフ(MBN)内相(故ナイフ皇太子の次男、56歳)が就任した。これで次の次の国王はいよいよ第三世代に移ることが宣言されたことになる。新しい国王の下でサウジ王制の安定性が確保され、王位継承問題も当分の間生じることはなくなったと思われたが、ここからサルマン国王の大胆な王室変革が取られ、サルマン家の権力樹立の途が取られていくことになる。まず、アブドッラー前国王の二人の息子、ミシュアル・マッカ州知事とトルキー・リヤド州知事が解任され、更にバンダル国家安全保障会議事務総長(元駐米大使)はその職をはく奪された。ここで、衆目を集めたのが、ムハマド・ビン・サルマン(MBS)王子が国防大臣と新たに設置された経済・成長事項評議会の議長に任命され、一気に国防(軍隊)と経済政策の実権を握ることになったことである。それから3か月後、2015年4月、ムクリン皇太子は依願退職し(一般的に更迭といわれている)、MBNが皇太子になるとMBSは副皇太子の地位をうることになり、遂に国王の地位を視野に入れることになった。一人に権力が集中されたと言っていい。勿論国政はサルマン国王による制令布告(decree)が行われるが、これまでの推移をみるとMBSによる国王への助言に基づき、多くの布告はなされているといわれる。これら王室の人事異動は、「無血クーデター」ともいわれたが、問題視されたのはムクリン皇太子の辞職であり、これが先例化されると恣意的な人事配置が繰り広げられる恐れがあるとの指摘があり、アブドッラー国王時代に設置された、王位継承(皇太子を含む)を論じる機関の忠誠委員会の存在が有名無実化するといわれている。更に、この懸念が現実化するケースとして皇太子MBNと副皇太子MBSとの関係で、サルマン国王在職中にMBNが地位を追われ(形は依願退職)、MBSが皇太子に上り詰めることであり、サルマン国王逝去でMBSは即国王に就任することができることになる。このシナリオはあながち空想とは言えない事象が起こっているようで、MBNとMBSの間では確執が生じてきているといわれる。報道によれば、駐サウジ米大使はジッダで執務していたMBNに来訪を促されジッダ空港に降り立ったところ、突然リヤドにいるMBSから至急要件があるので会いたいとの連絡がはいった。大使は(意を決して)空港からリヤドにとんぼ返りしたとのことである。この事態により、目上を尊ぶとのサウジの倫理がMBSにより無視されているとの不評が出ているとのことである。

 ここでムハマド・ビン・ナイフ(MBN)皇太子兼内相について一言触れてみたい。まず、サウジには30近い閣僚ポストがあるが、国家(公)権力につながるポスト、国境警備隊長、国防相、内相、都市村落大臣(自治相)そして外相などは王族から選出される慣行にある。また、サウジには十三州あるが全てその知事職は王族により占められている。内相は、故ナイフ皇太子が兼任し、いわばナイフ家の株の性格をもち、MBNも内務省次官から大臣になったものであるが、サウジを取り巻くテロの発生と脅威に対応する重要なポストである。筆者の在勤時代にMBNは内務省次官であったが、何回か面談の機会を得た印象では、外交団の評価同様にその性格は極めて温厚、高潔で決断に富む人物であり、テロ情報を懇切に説明してくれた。その温厚な性格でエピソードがあるのは、サウジはテロ実行犯が改悛し、社会復帰を取る道を奨励しているが、ある時テロ犯の人物が、自分が正しい道に戻ることができたのはMBNのおかげで、是非お会いしお礼を述べたいとの申し出たところ、MBNは快諾し執務室での面談を行ったが、その際テロ犯は体の中に隠し入れた爆弾で自爆した。MBNは、かろうじて軽傷で済んだがその面談を許すなどはMBNの穏健な性格が裏目に出たものであった。

 ムハマッド・ビン・サルマン(MBS)副皇太子は、シリアのイスラム国、イエメンのホーシ派への空爆を指揮し、訪米の際はオバマ大統領とも会談を行い、外交の舞台でも活動を初め、更に脱石油政策を「ビジョン30」として打ち出し、財政改革(補助金のカットなど)、外資導入策を積極的に推し進めている。これらの政策の成果を得るにはまだ時間が必要であろうが、軍事行動や経済分野で事態の改善が見られないときはMBSに対する信認が揺るぐ恐れが出てくる。このように、新たなサルマン王制の確立は、世代間の交代がなされ、近い将来まで政権の安定性が保証されるとの見方がある一方で、MBSの行動如何ではその安定性に疑問符がつけられるとの見方ができることに注意を要しよう。

 サルマン家について一言触れたい。サルマン国王に、リヤド州知事時代であるが表敬した際、その風ぼうが初代アブドルアジーズ国王に生き写しであったとの印象をもった。知事執務室に向かう途中、その昔20世紀初頭に宿敵ラシード家からリヤドを奪還したアブドルアジーズの騎馬隊が疾走する絵が壁一面に描かれているが、初代国王の凝視する面構えはサルマン知事に通じるものがあった。表敬において、先方は外交案件に関心を示されなかったことが印象に残った。また、知事庁舎には多くの陳情者が廊下を行き来し、アラブ社会特有の部族会議の雰囲気を醸し出していた。サルマン国王は、皇太子時代に日本を公賓で訪問(2014年2月)している。

 サルマン国王の家族であるが、長男のスルタン・ビン・サルマン王子(60歳)は遺跡観光庁の長官である。アラブ社会では初の宇宙飛行士であった。観光行政に力を注ぎ、サウジで初の世界遺産となったマダインサーレ遺跡を整備し、現在ではジッダ旧市街やリヤドの古都デライヤなど四つの世界遺産の認定を得ている。筆者在勤時、サルマン長官の人気と存在感は他の王子をしのぐもので、いずれサルマン国王誕生の際は枢要なポストを得るのではとの下馬評が高かったが、結局そうとはならなかった。次男のアブドルアジーズ・ビン・サルマン王子(56歳)は、石油省副大臣で現在もその役職にある。ナイミ石油大臣にはなかなかお目通りが叶わなかったので、副大臣のところには足蹴良く通い、石油情勢につき意見交換を行った。当時一バレル100ドルを超えた事情を詰問したのに対し、副大臣は、決して好ましい状況ではない、投機家の暗躍によるのと市場の感情的対応が蔓延しているせいで、本来70ドル前後が適当である、予算は45ドル程度で設定しているなど率直に述べていた。大の日本食ファンで、家族を連れよく訪日し、日本米を買い込んでいた。ナイミ石油臣の後任候補であったが、残念ながらそうとはならなかった。三男のファイサル・ビン・サルマン王子(46歳)は、オックスフォード大卒業で国際政治に通じ、中東情勢をよく論じてくれた。職業はメディアの社主で、アラビア語と英語の刊行物を発行していた。外務省の訪日プログラムに応じてくれ、家族を自家用機で連れて行ったが、帰国後是非お礼を言いたいというので公邸でお迎えしたところ、サウジ社会ではめったに起こりえないことで、夫人帯同で来訪し、夫人も訪日が如何に楽しかったかを語っていた。サルマン国王の人事異動でスルタン王子は二大聖地の一つ、マディーナ州知事に任命され、遂に公職を得た。個人的には将来是非外務大臣になってほしいと思っているが、如何。さて、サルマン国王はこのような優秀な息子達を得ていながら、何故一番若いムハンマド王子(MBS)を重職に取り立てたのか。筆者在勤の際、王子はサルマン・リヤド州知事の私的秘書で、若干二22―3歳であったため、結局会う機会を逸したが、実は当時王子は新婚旅行に日本を選び、六本木の近くのホテルで一週間以上滞在したのは情報で得ていた。一説では日本通で、日本式ゲームの愛好家であるという。MBSの母親は、上記3人の兄との母とは別であり、国王は強い親愛の情を有していること、MBSが私的秘書として知事時代から国王の信認を得ていたことなどが一気に政治のトップに躍り出た理由として言われている。故サウド外相は40年間外相の任にあり、外相になったときはやはり30代初めであったことを考えるとMBSのケースを特別視する必要はないが、父である国王の引き立てであることなどその出世には王族間でやっかみが生じてもおかしくはないであろう。そのMBSが国王の地位に近づきつつあるということは上述の通りである。

 次に現在のサウジ国防・外交について感想を述べたい。サウジの安全保障の要は、米国と英国との連携にかかっている。1990―91年湾岸危機そして戦争の際の米軍のサウジ駐留は緊急時の例外であっても、基本的にサウジ軍の装備と訓練は米英両国に負うところが大きい。その国防政策は、スルタン家の株であった。故スルタン皇太子は国防大臣を兼務し、その長男ハーリド王子は国防次官で、湾岸戦争当時湾岸協議会(GCC)軍の統合参謀長であった。同次官表敬の際、当時のGCC軍の展開を誇らしげに語っていた。スルタン皇太子死亡のあと国防大臣の職は、サルマン新皇太子の兼務とされハーリド次官は副大臣には昇格したが、同職には実質の権限はなくサルマン国王就任の際には同副大臣職も奪われるなどスルタン家は国防職を喪失した。そしてその職はサルマン家に、MBSに移されたのは上述の通りである。現在MBSの指揮下でイスラム国とイエメンへの空爆が行われているが、これは特にMBSが好戦的というわけではなく、むしろGCC関係国を主導する役割といってよい。2012年のアラブの春の時、バハレーンでシーア派の騒擾事件が発生し、サウジ軍がその鎮圧に出動している。問題は、その空爆の出費がサウジ経済、財政に与える影響に危惧が出始めていることである。

 サウジ外交の基本はイスラム諸国との連携である。第一にGCC諸国6か国との団結である。次にアラブ連盟諸国(23か国)との連帯である。最後に56ヶ国を数えるイスラム諸国会議との連携である。2016年1月、イランと外交関係を断絶した際、サウジが展開したのは正にGCC会議、アラブ連盟会議そして最後にイスラム諸国会議の開催で、イラン非難を採択することであった。但し、参加国は必ずしも全員がサウジに従うものではなかったが。サウジ外交は、その建国時からファイサル家が担ってきた。ファイサル第三代国王(在位、1964―75年)は、1932年の建国時初代外相になった。その息子サウード王子は1976年から実に40年にわたり外相の任にあたった。筆者はサウード外相と数度面談の機会を得た。表敬の際、同外相は対日関係が良好に推移していることに満足している、石油の安定的供給は保証する、イランの核開発は許容できない、イラクのマリキ・シーア派多数派政権はスンニ派を冷遇しているなど率直に意見を述べていた。年を追うごとに同外相の健康は悪くなってきているようであったが、鋭い眼光と説得的な口調は体の不調を感じさせないものであった。サルマン国王の人事異動で、サウード外相の依願退職が認められたが、これは健康状態によるものであり、翌年サウード前外相は外交顧問の肩書で永眠した。新たに外相に就任したのは非王族で前駐米大使のジュベイル氏であったが、王族出身ではないことに批判が出され、王族の外務副大臣は抗議の辞任をしたといわれる。ファイサル家にはサウード外相の弟にトルキー王子(71歳)がいて、彼は統合諜報庁長官を長いこと勤め、最近では駐米大使を歴任しておりプロの外交官であったが、結局サウード外相のあとを継ぐことはなかった。今はリヤドの中心にあるイスラム教関係の研究所所長をしているが、筆者の訪問を快く引き受けてくれ、国際情勢について意見を述べてくれた。これからも対外的発信者として活躍をしていくと思われる。もう一人外交のプロと評価されていたのが、バンダル・ビン・スルタン王子(66歳)である。湾岸戦争の最中駐米大使として米側との交渉に明け暮れながら、米軍のサウジ駐留を実現し、イラクのクエイト撤退を導いた功績は大きい。その後帰国しても迎えるポストがなかったため彼のために国家安全保障会議事務総長のポストが用意された。このとき筆者は二度彼の私邸を訪れる機会を得た。待つこと久しく私服で現れ、待たせたことに陳謝しつつ、今イランのラリザニに会っていたところだと述べた。ラリザニこそイランの核開発問題の責任者で、当時国家安全保障最高評議会の議長をしていた人物である。何故彼がリヤドにいるのか、そのあと種々質問を投げかけたが、イラン核開発問題については双方の立場は平行線だったとの説明であった。表向きはサウジ・イラン間の協議は一切行われていない状況で、裏では非公式とはいえ対話の途が残されていること自体驚きであった。現在両国間は外交関係が断絶しているが、再開の途を探る術が裏チャネルにでも果たして残されているかは疑問である。バンダル事務総長は、サルマン国王により同職を解任され、現在同職も存在しない。なお、バンダル事務総長は筆者に、自分は通常大使には会わないが、日本は例外である、日本の皇室を尊敬しているからだと述べていた。因みに、アブドッラー国王が日本からの要人を謁見する際陪席する機会が多くあったが、国王の最初の発声は、天皇陛下はお元気でおられるかの質問であった。総じてサウジの王族はわが国皇室に尊敬と関心を寄せていることが看取された。もう一つ、外交の裏チャネルにあるのが総合諜報庁であり、その長官には歴代王族が任命されている。同庁とわが国外務省当局とは親しい関係を築いてきたため、筆者も比較的頻繁に同庁を訪れ、当時のムクリン長官と懇談する機会に恵まれた。同庁の活動の中にいくつかのエピソードはあるが、報道に漏れた案件にパレスチナの犬猿の仲にあるファタファとハマスとの調整とアフガニスタンのタリバンへの働きかけがある。前者はマッカにおいてアブドッラー国王主催で両派指導者を和解に導いたものだったが、両者はパレスチナに戻るや再び袂を分かったため、国王は激怒し、特にハマスに対し厳しい対応を取るようになった件である。この対話を設定したのが諜報庁であったが、ムクリン長官はこのような事態は二度と起こしたくないと言っていた。サウジはタリバン政権が90年代央に樹立した際パキスタンとともに同政権を承認した国であり、アフガン問題の解決にはタリバンの参加は不可欠との立場を堅持している。このため現在もタリバンへの働きかけを行っているが、マッカでの協議は本来秘密裏に行われるものが報道で公表されたため、通常穏健なムクリン長官は厳しい表情を崩さなかった。裏チャネルは当事者間の合意を求めるものではなく、妥協点を探るものであろうが、その成否は当事者の力量にかかっている。現在バンダル王子もムクリン王子も閑職の身にあり、果たして裏チャネルを行使する人物がいるのかは定かでないが、ジュベイル外相の公の立ち振る舞いをみるとやはり外交には裏チャネルが必要と感じる。但し、今の中東情勢は極めて複雑であり、単にサウジ・イラン関係の対応だけでは済まない状況が、対イスラム国、対シリア・アサド政権そして対イエメンへの対応と絡み合っていることであり、そのため各問題解決の道筋が見えてこない事情にある。
(7月20日記)