日本ブータン外交関係樹立30周年を祝う

小島 誠二
元駐タイ大使 小島 誠二

はじめに―親善訪問団派遣の経緯

昨年2月に日本ブータン友好協会会長に就任した。本年は、日本ブータン外交関係樹立30周年、そして日本ブータン友好協会設立35周年に当たり、官民両分野においてさまざまな行事が実施されている。この記念すべき年に、日本ブータン友好協会親善訪問団団長として、9月7日から17日まで、ブータンを訪問することとなった。今回の訪問は、インド在勤中の1996年3月にブータンを訪問した筆者にとって、20年ぶりの訪問となる。本稿では、日本ブータン友好協会設立と外交関係樹立までの経緯、協会による親善訪問団の派遣状況、今回の親善訪問の意義・成果を紹介したうえ、今後の日本ブータン関係について考えてみたい。

1.日本とブータンを結びつけた京都大学とブータン王妃陛下(当時)

(中尾佐助大阪府立大学助教授のブータン踏査)1957年11月、滋賀県の牧師・西村関一師の仲介で京都大学山のグループ(桑原武夫教授、芦田譲治教授及び中尾佐助大阪府立大学助教授)は、母君に当たるラニー・チュニー・ドルジ夫人とともに訪日中のケサン・チョデン・ウォンチュック王妃陛下(第3代国王王妃)に京都ミヤコ・ホテルで拝謁する。この出会いが契機となって、中尾助教授は1958年6月から11月にかけてブータンを踏査し、その成果を一般向けに「秘境ブータン」(毎日新聞社刊1959年)として発表する。

(西岡京治氏のブータン派遣)1964年に西岡京治氏は、海外技術協力事業団(OTCA、現在のJICA)からコロンボ計画の農業専門家としてブータンに派遣される。西岡氏は中尾助教授の大阪府立大学での教え子であり、同助教授がインド西ベンガル州のカリンポンにあるブータン・ハウスで西岡夫妻をジグミ・ドルジ・ブータン首相に紹介したことがきっかけであった。西岡氏は、1964年から28年間にわたってJICAの農業専門家として活躍し、1980年第4代国王陛下から「ダショー」の称号を授与された。西岡京治氏が日本式農業のモデルファームとして「パロ農場」を開設されたことは日本でもよく知られているが、焼き畑農業からの転換を図るため、1972年頃から南部のシェムガン地方開発計画の推進者の一人となったことはあまり知られていない。1988年2月ADBに出向中の筆者は、ブータンに出張した折、西岡氏のご自宅をお尋ねしたことがある。同氏は、1992年グラム陰性菌によるとみられる敗血症により客死された。                                                                                                                                                           

(京都大学ブータン学術調査隊の派遣)1969年2月にブータン王妃陛下の再度の訪日があり、王妃陛下の招待により桑原武夫教授と笹谷哲也京都大学経済学部卒業生が短期間訪問した後、1969年10月から12月にかけて京都大学ブータン学術調査隊が派遣される。松尾稔助教授を隊長とする調査隊はプンツォリンからパロ、ティンプー、ブムタン、モンガル、タシガンを経て、サムドゥップ・ジョンカルからインドに抜けるルートをたどる。文字通り、ブータンを横断したわけである。同調査隊は、馬や人夫に頼らざるを得なかったことに加え、ブータン政府の滞在許可とインドのインナーライン・パーミットの取得に苦労したようである。その記録は「ブータン横断紀行」(講談社刊1978年)に取りまとめられている。このような京都大学の伝統は、2010年10月に開始された「京都大学ブータン友好プログラム」に生きている。同プログラムには、健康・文化・安全・生態系・相互貢献という5つのキーワードが設定されている。

2. 東郷文彦カルカッタ総領事によるブータン訪問

日本とブータンとの初期の出会いは、京都大学によるもののみに限られていたわけではない。日本政府側からのイニシアティヴもあった。1962年5月東郷文彦カルカッタ総領事夫妻は、ジグミ・ドルジ・ブータン首相の招待で、ブータンを訪問された。夫妻は、プンツォリン経由ジープで3日をかけてパロに到着された。その間、いせ夫人はあの中尾助教授を悩ませたヒルに襲われたようで、その時の経験を自伝である「色無花火」(六興出版刊1991年)に書いておられる。東郷総領事は、ブータンの学校に200枚の板ガラスを寄贈しておられ、これがブータンでガラスを使用した最初と言われている。ご夫妻は何度もブータンを訪問しておられ、ケサン・チョデン・ウォンチュック王妃・皇太后陛下(第3代国王王妃)と長きにわたって親交を結ばれた。東郷総領事は、いせ夫人に「自分はかつてこの国で生まれたことがあったような気がする」と言われたそうで、1985年4月に逝去された後、東郷総領事の遺骨の一部は、パロにあるキチュ・ラカンを見下ろす慰霊塔に安置されている。

3. 日本ブータン友好協会の設立と日本ブータン外交関係の樹立

(日本ブータン友好協会の設立)1981年1月、日本ブータン友好協会が設立される。会長に桑原武夫京都大学名誉教授、副会長に東郷文彦外務省顧問、常任幹事に小方全弘富士印刷取締役および栗田靖之国立民族博物館教授が就任し、13人の幹事の中には、芦田譲治京都大学教授、川喜多二郎筑波大学教授、中尾佐助大阪府立大学教授、中根千枝東京大学教授、西堀栄三郎京都大学名誉教授、原寛東京大学名誉教授および松尾稔名古屋大学教授とともに、宇山厚元駐インド大使と新関欽哉元駐インド大使の名前が見える。ここには、京都大学を中心とする学会と外務省OBの融合が見られ、その後の協会の方向性にも影響を与えたと考えられる。

(日本ブータン外交関係の樹立)ブータンは1962年にコロンボ計画に、1972年には国連に加盟する。また、1968年にインドと、1973年にバングラデシュとそれぞれ外交関係を樹立し、80年代半ばにはネパール、クウェート、スイスおよび北欧諸国と外交関係を樹立した。ブータン側に日本と外交関係を樹立する機運が高まっていたとみられる。日本側においても、1981年に日本ブータン友好協会が設立され、5年後の外交関係樹立に繋がっていったと想像される。

(日本ブータン友好協会の役割)当協会の会則には、協会の目的として、「民間相互の立場から日本・ブータン両国国民間の理解を深め、両国の友好・親善に寄与すること」が掲げられている。しかしながら、設立当初から外務省OBの参加が見られること、両国の在インド大使館がそれぞれ在ブータン日本国大使館と在日ブータン大使館を兼轄していることから、当協会は、草の根レヴェルの友好親善活動に加え、両国政府間の橋渡し、両国外務省への支援、在東京ブータン名誉総領事館への支援、在日ブータン人のお世話、一般日本国民に対する情報提供などの活動を行ってきた。

4. 日本ブータン友好協会による親善訪問団の派遣

(1) これまでの訪問団

当協会設立当初から、親善訪問団の派遣は重要行事である。設立の年には、いち早く桑原武夫会長を団長とする訪問団を派遣している。第1回訪問団が陸路ブータンに入国したのに対し、第2回以降の訪問団は空路を利用している。第2回訪問団の訪問先には、トンサやブムタンが、第3回訪問団の訪問先にはモンガルやタシガンが含まれており、訪問旅行は相当過酷なものであったと想像される。野田英二郎会長を団長とする第4回訪問団(2000年6月)は、王立自然保護協会の招きによるものであり、ブータンのNational Forest Dayに合わせて、桜の苗木200本を植樹することが目的であった。谷野作太郎会長を団長とする第5回訪問団(2008年11月)の目的は、第5代国王陛下の戴冠を祝うことと、同国王陛下がパトロンをされている王立自然保護協会によるポプジカ鶴祭りに主賓として出席することであった。また、榎泰邦会長を団長とする第6回訪問団(2011年8月)は、「協会創設30周年、両国国交25周年」を記念することにあった。第4回以降の訪問団の目的は、それぞれ異なっていたが、首都ティンプーのある西ブータンを主たる訪問先とし、ブータン政府要人訪問が重視されていた。

(2)今回の訪問団

(目的―2つの周年を祝う)今回の訪問は、日本ブータン外交関係樹立30周年と当協会設立35周年を記念するものであり、親善訪問団としては5年ぶりの訪問であった。今回の訪問には、4つの目的があると考えていた。

第一に、当協会の設立目的に鑑み、できる限り多くの場所を訪問し、多くの人々と交流し、相互理解を深めること。

第二に、ティンプーにおいてブータン政府要人を表敬訪問し、これまで当協会に提供していただいた様々な支援に対して、感謝の気持ちを伝え、これからの支援をお願いすること。

第三に、設立35周年を機会に、これまで当協会のたどってきた道を振り返ること。

第四に、節目の年に当たり、当協会のあり方、ひいては日本とブータンとの関係について、ブータン政府や人々とともに考えてみること。

(今回の訪問団の位置づけ―中部・東ブータンに足を伸ばす)今回は、これまで訪問する機会が少なかった中部ブータンおよび東ブータンを重点的に訪問することとし、訪問団本体とは別に、会長および副会長が先行してティンプーを訪問して、政府要人を訪問することとなった。

(ティンプーにおける行事―ブータン政府より当協会への謝意表明)ティンプー滞在中のワーキング・デイが短かったこともあって、地方行幸中の国王陛下への拝謁及び地方出張中の首相への表敬は実現しなかったが、ダムチョ・ドルジ外務大臣、ソナム・キンガ上院議長、ナド・リンチェン前枢密院顧問、ダゴ・ツェリン前駐インド大使(元駐日大使)などと懇談することができた。10日の懇親会には、ダムチョ・ドルジ外務大臣、ジグミ・ザンポ下院議長、V. ナムゲル駐インド大使、ダゴ・ツェリン前駐インド大使、ナド・リンチェン元駐インド大使、ペマ・ジャムツォDPT党首などの官民要人、日本への留学生、ブータンで活躍する在留邦人などを含む約50人の参加があったが、主賓として出席した外務大臣から当協会のこれまでの支援への謝意が表明された。改めて、当協会が懸け橋―両国をつなぐ懸け橋、両国国民をつなぐ架け橋および日本政府と日本国民をつなぐ架け橋―を果たしていくべきことを胸に刻むこととなった。この関連で、複数の元駐日大使が中心となってブータン日本友好協会(名称未定)を設立する動きがブータン側に見られることを知り、心強く思った。もう一つの懸け橋がブータン側から懸けられることになる。2つの協会の相互訪問が実現する日を待ち望みたい。

(中部・東ブータン訪問―さまざまな多様性に触れる)パロからブムタンまでは航空機を使い、ブムタンからサムドゥップ・ジョンカルまでは陸路であった。全行程約470キロ、連続で車両走行しても約20時間を要する。すべての行程が照葉樹林の中を通る山道であった。後で、山谷風による乾燥地帯も通ってきたことを知った。ブータンでは峡谷が南北に走っているから、東に行くには峡谷を超えていくほかはない。1969年京都大学ブータン学術調査隊がかつて馬と人夫とともに訪問した村を通過したり、休憩したりしていくことは感慨深かった。いたるところで道路改修工事がなされているので、調査隊の苦労を想像することはますます難しいものとなろう。小型バスは、標高3,740メートル(トゥムシン・ラ峠)から、途中上りと下りを繰り返しながら、標高150メートルのサムドゥップ・ジョンカルにたどり着くことになる。その間、ウラ、センゴル、モンガル、タシ・ヤンツェ、タシガン、ワムロン、ナルプンに立ち寄りながら、点在する村々の生活の営み、生活用品、伝統的な衣服、稲を育てる段々畑、ピンク色のそばの花、植生の変化、人々の祈りの姿とあかし(多様な祈りの対象と場と手段)などを目にすることができた。一部の団員はメラまで足を延ばした。今回は車で行くことができたそうである。ブータンでは、峠を越えるたびに植物相や言語・風俗が移り変わると言われるが、旅行の過程で乳製品の多様さ、家造りの違い、生育されている農作物の変化などを観察することができた。

(参考)ブータンについては、民族的な多様性や地理的な多様性が指摘される。ブータン文化は、牧畜を主とするチベットの文化的要素と東南アジアの農耕社会的要素の融合したものであると言われる。民族的には、ブータン国民は、シャーチョップ(東方の民)と呼ばれる原住民の子孫、チベットのカム地方から移住してきて西ブータンに住みついた人々の子孫および前世期の初め頃にネパールからやってきて南ブータンに住み着いた人々によって構成されている。なお、ネパール系住民は、ブータンの全人口の20~30%を占めると言われる。地理的には、南北160キロの国土に対して7,000メートルの高低差が存在しており、複数の気候帯にまたがっている。

(日本ブータン間の協力と交流―成果に出会い、実践する)中部・東ブータン訪問に先立つ7日、JICA事務所を訪問し、山田浩司事務所長と高野翔次長から、JICA協力の重点分野と将来の協力の方向について詳しくお話を伺うことができた。

中部・東ブータンでは、偶然、日本が協力して建設された橋(ブムタン)、地方自治体が供した消防車(ブムタン空港とタシガン・ゾン)、救急車(ブムタン空港)、ゴミ収集車(ブムタン・ゾン)が今も使われていることを目にすることができた。

今回の訪問では、日本語学校への日本語図書の寄贈(ティンプー)、熊本県山鹿市からティンプー市への山鹿灯篭の寄贈、ニンマ派のロダク・カルチュ・ゴンパ(ナムカイ・ニンポが座主を務めることからナムカイ・ニンポ・ラカンと呼ばれる。)における法要(世界の平和とジグメ・ナムゲル親王殿下のご健勝を祈願した。)、国立盲人学校生徒の歌による歓迎(カリン)、国立伝統技芸院の見学(タシ・ヤンツェ)などを通じて草の根の交流を進めた。

(モンガルからバンコクまで追いかけてきた国王陛下の贈り物)旅の途中、ジグミ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク国王陛下から一行全員に贈り物が下賜されたという連絡をいただいた。一行はワクワクして贈り物が届くことを待ちながら、旅行を続けることとなった。待ち望んだ贈り物は、帰国前夜、バンコクでの夕食の席でソナム・プンツォ在タイ・ブータン大使館参事官より団員一人一人に手渡されることになる。

5. 今後の日本ブータン関係

(1)ダムチョ・ドルジ外務大臣の見解

9月9日、ダムチョ・ドルジ外務大臣は、親善訪問団団長の筆者に対して、次の通り述べた。

(イ)ブータン王室と日本の皇室との間には、親密な関係がある。

(ロ) 欧州のドナーがブータンへの援助を打ち切り、アフリカへの援助を増大させる中で、日本が援助を継続してくれていることに感謝する。確かに一人当たりGDPは増大しているが、現在計画中の水力発電事業が収益をもたらすまでの間、外国からの援助が必要である。

(ハ) 現在政府予算はプロジェクトの維持管理費を計上しているが、資本投資そのものは外国援助に頼っている、ブータン政府は債務抑制・管理に留意しており、水力発電分野とそれ以外の分野に分けて公的債務の上限を設けている。

(ニ) 外国投資の分野としては観光とIT関連分野が考えられるが、投資優遇制度を導入することは難しい、ブータンは製造業への大規模投資を期待しているわけではない。

(ホ) 2015年のブータンへの旅行客数では、中国や米国が上位を占め、日本は第7位にとどまっている。

(ヘ) 日本ブータン友好協会が友好親善活動を続けてこられたことに感謝する。ブータンが在外公館を設立することには予算的な制約があり、ティンプーに多くの在外公館の建設を認めるには土地の制約がある。今後、日本ブータン関係に関与する組織を一つにまとめるようなことも考えたい、

(2) 筆者の私見

(イ) 日本の皇室とブータン王室の親善活動

日本とブータンの間には、皇族と王族の相互訪問がこれまでに頻繁に行われてきた。2011年11月の国王陛下・王妃陛下のご訪日が日本国民に強い感銘を与えたことは記憶に新しい。本年も「ブータン展」開催に合わせて、前王妃陛下が来日されている。今後とも、このような親善活動が続けられることを期待したい。

(ロ) 政治対話

9月24日から26日まで、河井克之内閣総理大臣補佐官が「ブータン日本週間」オープニング・セレモニーに出席するため、ブータンを訪問された。日本の政治家のブータン訪問が多いとはいえず、今回の訪問は喜ばしい。近年ブータンへの航空アクセスが改善されており、両国政治家間の対話がもう少し活発化することを期待したい。

(ハ) 開発協力

ブータンの一人当たりGDPは、2,560米ドル(2014年世銀資料)であり、中所得国のレヴェルに近付いているが、国家の規模・位置、労働力の制約、可耕地の制約、多数の氷河湖の存在などから生ずるさまざまな脆弱性に直面している。今後とも、農業・農村開発、地方部基礎インフラの整備、地方行政能力構築、産業育成・雇用拡大、環境問題・気候変動への対応などの分野で支援が続けられることを期待したい。今回の訪問で、タイ国際協力機構(TICA)がタイ版「一村一品運動(OTOP)」を「ワン・ゲオグ・ワン・プロダクト運動(OGOP)」として協力していることを知った。このような三角協力も、有意義ではなかろうか。

(ニ)草の根交流

今回、ブータン中部・東ブータンを訪問して、草の根の交流と協力の成果を見る機会があった。当協会としても、引き続きこのような交流と協力を行ったり、他の国内組織を支援したりすることを続けていきたい。また、両国をつなぐ懸け橋、両国国民をつなぐ架け橋および日本政府と日本国民をつなぐ架け橋を今後とも果たしていくこととしたい。                                                         

なお、飛行機乗り継ぎのため、南部ブータンとアッサム州に立ち入るに当たっては、日本外務省の「海外安全情報」と現地の治安情勢に通じている東ブータン出身のベテラン・ガイドと日本人添乗員の助言に従ったことを付言しておきたい。

参考文献
東郷いせ「色無花火」六興出版1991年
中尾佐助「秘境ブータン」毎日新聞社1959年
桑原武夫編「ブータン横断紀行」講談社1953年
西岡京治・里子「ブータン」NTT出版1998年
今枝由郎「ブータン―変貌するヒマラヤの仏教王国」1994年
本林靖久「ブータンと幸福論」法蔵館2006年