広島演説を通して見たオバマとフランシスコ
上野 景文 杏林大学特任教授 元駐バチカン大使
やや旧聞になるが、5月27日のオバマ広島演説を巡って、気づいたことがある。それは、同演説に滲み出ていたオバマ大統領の発想、思想に、ローマ法王フランシスコの発想、思想との近似性が認められたと言う点だ。以下、暫く拙見とお付きあい願いたい。
オバマ演説は、心の奥底に届く名演説であり、演説の推敲を重ねたであろうオバマ氏の「魂」に触れた思いであった。多くの重要な論点が込められた同演説に対しては、既に、日米関係の文脈、核廃絶の観点、文明論的観点、人類史的観点など様々な観点から論評が出されたが、冒頭の問題意識に立った論評は(私が知る限り)なかった。
この歴史的な演説の中で、オバマ氏は、(広島における)個々の犠牲者のことに十分に思いを馳せるべきだとして、こう述べた。
「なぜ私たちは広島を訪れるのか。・・・・・・死者を悼むために訪れる・・・・
彼らの魂が私たちに語りかけます。・・・・・・・私たちは・・・・・市の中心に立ち、原子爆弾が投下された瞬間を想像しようと努める・・・・・・混乱した子供たちの恐怖を感じようとします・・・・声なき叫びに耳を傾けます・・・それ以降の戦争で殺されたすべての罪なき人々を思い起こします。・・・71年前、(犠牲者にも)大切な時間がここにあったことを知ることが出来ます。亡くなった人たちは、私たちと変わらないのです。」
つまり、犠牲者の目線に立ち、犠牲者の顔や物語を踏まえた戦争の実態を直視せよと言っている訳だ。発言の行間を読めば、氏はこう言いたかったものと見る。「旧来、戦争と言えば、多くの犠牲者を出すものとの前提があった。これまで国家戦略や軍事作戦を策定した人達は、そうした犠牲者のことは度外視して来た。だが、多くの犠牲者に思いを馳せずに戦略や作戦を練ることは、非道徳的だ。作戦策定の際は、多くの犠牲者を出すことになるか見通すだけの想像力を持ち、非道徳的作戦は控えるべきだ」と。
大統領は、更に、「・・・私たちは、戦争そのものへの考え方を変えねばならない・・・・(国際社会は)道徳的に目覚める(べきだ)」と続けた。このように語りかけるオバマ氏からは、軍の最高指令官としての顔よりは、市民運動家として顔、或いは、「ポストモダニズムの思想家」としての顔の方が、表出しているように感じられた。明言こそしていないが、トルーマン的な軍事論から距離を置いていることは明らかと思えた。
ところで、オバマ氏と同旨の発言を続けているスーパー指導者がもう一人いる。他ならぬローマ法王フランシスコだ。法王はこう力説する。「政治家や官僚は、(紛争などに対処するに当たって)生身の子供たちや男女の命がかかっていることを肝に銘じなければならない」(昨年9月、国連総会での演説)、「(戦争やテロと言った)破壊行為は・・・抽象的・・・なことではなく…そこには、人の顔があり、実際の物語、名前がある」(昨年9月、NY市グラウンドゼロでの発言)と。
法王は、経済格差、貧困などとの関連でも、同様の主張を緩めない。「貧困には顔があります。子供の顔、家族の顔、・・・強制移住させられた・・・人々の顔・・・・その顔や物語が見えなければ、人の命は統計値になってしまい・・・・他人の苦しみを官僚的に眺める危険があります」(本年6月、WFP(世界食糧計画)理事会での演説)と。
2年半前、オバマ大統領は、「遺憾なことに、ホームレスが路頭で死んでも報道はないが、株価が2ポイント下がると報道される」との法王の指摘に共感し、自身の経済演説の中でこれを引用すると共に、「(法王は)平和と正義に関する特別の使者だ」と評した(2013年12月25日、LAタイムス)。
世俗社会の最高権力と精神世界の最高権威の「波長」が符合するとは。またとない組み合わせと言える。元来、生命・家族倫理の問題につき、保守的なカトリック教会とそりの合わない大統領ではあるが、社会経済問題については、法王と似た波長と言うことのようだ。それは偶然ではない。二人の経歴を見れば分かることだ。オバマ氏は市民運動家として「現場主義」の眼を有し、法王も「現場(修道会)育ち」ということで、共に弱者擁護、「現場」重視の姿勢が強い。
世界でも最も影響力がある二人のスーパー指導者が、共に「現場」育ちで、国家官僚が創る戦略や計画が「現場(弱者)」への配慮を欠く場合があることに警鐘を発し、「弱者・犠牲者に思いを馳せろ」との主張を続けている。期せずして両巨頭による「共演」が実現していると形容しても、あながち誇大表現にはならないだろう。
折しも、世界のメディアはもとより、国際社会の関心は、米国の大統領選挙に集中しており、法王とオバマの「共演」に目を向ける人はいない。が、「二人の共演」は、国際社会にとってひとつの大きな「資産」と言える。この点は、もっと注目されて良いし、国連をはじめとする国際社会は、これを活かすべきであろう。
なお、別件になるが、日本のカトリック教会は2013年秋にフランシスコ法王に訪日を招請している(日本政府も翌年招請)ところ、これに応え、法王来日が早期に実現することが期待される。
【参考】上野景文著「バチカンの聖と俗(日本大使の一四〇〇日」(かまくら春秋社)