第16回「通信料と電報文」

元駐タイ大使 恩田 宗

外国との通信料は今はほとんどかからなくなったが昔は恐ろしく高かった。明治28年の外務省の電信費は省予算の17%を占め本省人件費の3倍だった。以後年によって上下があった。第一次世界大戦に勝利して5大国の一つとして国際連盟に加盟した大正9年は省予算の24%で連盟から脱退した昭和8年は6%になった。第二次大戦の前は平均して1割前後だった。電報は語数が多いと送信料が高くなるだけでなく暗号処理などに電信官の手間が増えるので省員は皆簡潔に要領よく書くよう鍛えられた。

 第二次大戦後も状況は同じだった。外交が再開されて暫くした1957年当時の中東諸国への電報は全て海底ケーブルでロンドンを経由して送られるため1語が200円前後だった。45語の電報1本で外務省の大卒初任給(9,000円)が消し飛ぶ計算だった。電信案は上司により徹底的に直された。1952年のファイルにある新米の事務官起案のワシントン大使館宛て電信案は「16日JAL606号機にて羽田発、ホノルル午後7時30分着、同10時30分発、桑港17日10時20分着、一泊ののち、18日7時UAL 618号機にて同地発、ワシントン午後10時5分着の予定」であった。それが「16日JAL606にて出発、17日桑港着、一泊、18日UAL 618にて貴地着の予定」と字数が911から41に削られている。こうした電文短縮への努力の過程で外務省電報に独特の言い回しが生まれた。

 ハイテクの通信網と情報処理システムの導入で通信料は画期的に安くなり電信官への負担も極小化された。今や通信専用料は省予算の0.2%に過ぎず電報の字数は問題とされなくなった。逆に、誰が読んでも違和感がないよう又情報公開の関係でインターネット検索の妨げにならぬよう多少長くなっても平易で判りやすく書くよう奨励されているという。その為、国名や都市名の漢字による短縮表記(蘭、瑞、墺、寿府、桑港)や「 」を使った省略表現(ゴルバチョフを「ゴ」、サウジアラビア訪問を訪「サ」)は少なくなっているという。

 通信のハイテク化は電報の数の飛躍的増大をもたらし電報総数はいずれ年1,000万通(転電を含む)にせまる勢いだという。首席事務官や課長も内容の吟味が精一杯で文章の添削までは手が回らないらしい。今後は読む人の負担を考慮した電報文のスタイルを生み出す必要があるかもしれない。

 なお明治30年代の後半まで電信は英語で遣り取りしていた。ロシア皇太子遭難の日青木大臣は駐ロシア西公使にAssault was made upon Russian Crown Prince this noon…Express at once our most profound regret …and assure him…that full and complete justice shall be meted out to His assailant… I proceed at once to Otsuと訓令し、2日後(露外相は) said that he felt as though he was struck by lightning and that he knew not how to answer before the matter will be presented to the Emperor…(He)was much agitated saying that nothing can be worse than thatとの返電を受け取っている。                   

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