第15回「日本語の文法」

元駐タイ大使 恩田 宗

「リンゴと柿、どっちがいい?」との台所からの声に「柿でいい」と答えると重い思いをして買って来たのにがっかりだと言う。「柿で我慢する」という意味に受け取ったらしい。当方は選択に迷い即座に「柿が欲しい」「柿を貰う」と言いかね「柿の方でも食べようか」という趣旨で返事をしたのだが「柿にする」と言えば誤解なく済んだかもしれない。文法書には「で」は含意が豊富だが正確さに欠けるとあった。

 こうした問題を文法書で確かめたいと思っても一般成人向けの便利で詳しい文法書はないと言ってよい。あっても著者により言うことが違う。日本の文法学界が諸説対立していて「ザ」日本語文法と言えるものが確立していないからである。学校で習う文法は所謂「学校文法」と言われていて一つの文法学説に基づくものに過ぎない。

 現代日本語の文法の研究は明治時代に日本語に印欧語(特に英語)の文法を当てはめて考える所から始まった。単語を品詞に分類し主語 – 述語を文の基本骨格とする文法である。しかし肉包丁で魚を調理した様なものでさばききれない問題を沢山残した。日本語は切れ目なく書かれており単語の認定が厄介である。例えば「ている」を一つの助動詞とするか助詞「て」と動詞「いる」の2単語とするかで見解が分かれている。そもそも助詞や助動詞を単語と認めない説もある。単語の品詞分類でも意見が一致しない。広辞苑のように「そんな」を連体詞だと分類する辞書もあれば角川国語辞典のように形容動詞「そんなだ」の連体形とするところもある。形容動詞や代名詞を品詞として認めない説も有力である。形容動詞だとされている「静かだ」は体言「静か」と助動詞「だ」であるというのである。

 「学校文法」は文は「主語 – 述語」で成り立つと教える。しかし日本文に主語があるかないか要るか要らないかの学術論争はまだ決着していない。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」のサイデンステッカー訳はThe train came out of the long tunnel into the snow country である。しかし原文は作者も主人公も汽車と一緒にトンネルを抜けて行ったように読み取れ主語は汽車だとは必ずしも言えない。

 昔イエズス会の神父が日本語の解明に手こずり「悪魔が考えた言葉だ」と言ったという。それは作り話らしいがロドリゲスは「日本語大文典」(1604年)に「日本語は・・不完全な言語」などと書いているという。印欧語の文法から見ての判断である。「世界の言語と日本語」(角田太作)によると調査した130の言語の中で日本語は決して特殊な言葉とは言えないという。主語の問題にしても世界には主語の弱い言語の方が多くその意味で英語は主語の強さで突出しているという。

 文法学者の大野晋は、日本語文法は学問としてまだ整っていない、「日本語で育った人間が・・自分の言語を深く反省し」自分で自分の「文法を・・組織立てていく以外に方法がない」と言っている。言語は文化の基である。日本人は大事なことを遣り残している。