第14回「幕末日本の英語力」

元駐タイ大使 恩田 宗

幕末の武士が持っていた英語の単語集をみたことがある。はがき大の和紙8枚の裏表に細筆で約650語がみっしり書き込んであった。仙台藩士玉蟲左太夫(1823~69)が「世界の形勢を観察し国家の為に資せんと志し」万延元年(1860年)の遣米使節に「懇請して随従」した際携行したものである。

 あの近代日本の最初の外交使節団は総員77名(大使級3名、参事官・書記官級17名、従者57名)でその中に阿蘭陀通詞3人が居た。米国政府もオランダ語通訳一人を準備していて、大統領、国務長官、市長、議会などへの公式訪問には彼を介在させ日―蘭―英の間接通訳で意思疎通をした。しかし副使村垣淡路守の日記に大統領主催晩餐会でホステスから女性は日米「いづれが勝れるや」と問われ「米利堅(メリケン)の方色白くてよしと答えければよろこびあえり、愚直の性質なるべし」とあり社交の場での会話は阿蘭陀通詞が直接英語で通訳したようである。同行した通詞達はその程度の英語通訳はできたらしい。現地紙は彼等の英語はtolerably good Englishだと評価している。

 玉蟲はというと自薦他薦の諸国藩士と同様従者扱い(玉蟲は荷物係)のため通訳を通詞に期待できなかった。漢学者だった彼は出発前に蘭学者から泥縄式に英語を勉強したのである。

 玉蟲の単語帳には、明日ツムルロー、富リシ、怒アンジル、違うチフリント、本ホック、甚高値ウェレー・ジイル、吾思アイシンキ、五ファイとありオランダ訛りが強い。「皆美シキ女子」ヲール・ビヲーチホル・オーメンともあるが玉蟲のお愛想が米国の女性達に通じたとは思えない。実際に「書肆ヲ尋ネシニ言語通ゼズ」という有様だった。あの単語帳の発音では円滑な意思疎通は無理である。 

 咸臨丸で西海岸まで同行した福沢諭吉も英語は習いたてで現地での首尾は玉蟲と大差なかった筈である。幕末(1858年頃)逸早く英語塾を開いた伊東貫斉でさえ下田でヒュースケンに直されるまではwhiteを「ウヒイッテ」と読んでいた。又、開港地では値段なんぼハマチ、わたし正直アイライト、などと教える実用書が売られていた。英語の普及に貢献した米人宣教師ヘボンは着任したばかりで日本最初の和英辞典「和英語林集成」を出すのはその7年後である。幕末日本の英語力はまだ夜明け前の状態だった。

 それでも玉蟲は滞米中は勤めて資料を集め人にも執拗に質問し各地の地勢・文物・制度を詳細に調査した。その報告である「航米日録」は筆写され多くの人に読まれた。彼は当時数少ない米国通で仙台藩の「開国助幕派」のリーダーとして藩内若手の輿望を一身に集めていたが明治2年奥羽越列藩同盟策謀の罪により切腹を命じられた。玉蟲はあの怒涛の時代持てる才能・知識・経験を生かせず無念の死を遂げた数多くの俊傑の一人である。