能とバレエ

元駐ギリシャ大使 齋木 俊男

 世の中に能とバレエほど違いの大きいものはありませんが、両者の競演というめずらしい催しが昨平成二十七年一月国立能楽堂でありました。いささか旧聞に属しますが、同年九月号本誌掲載の拙稿「能は千番」の補足までにその様子を記してみます。

 この催しは当代一流の能楽師・人間国宝の梅若玄祥がパリ・オペラ座トップ・バレエダンサーのマチュー・ガニオと「タイースの瞑想曲」を舞うものでした。「競演」といっても二人が一緒に舞うのではなく、まずガニオが妹のマリーヌ・ガリオとパ・ドゥ・ドゥーを踊り、次に梅若玄祥が同じ曲を創作能で単独に舞うものでした(能は原則として足を上げないので「踊る」とはいわず「舞う」といいます)。  「共演」の部分もあり、開演直後二人が能管に乗って登場し、橋掛かりのところに並んで「瞑想曲」の最初だけを能の振り付けで舞いました。バレエ・ダンサーにとっては初めての体験だったでしょう。  他方能楽師が西洋音楽を舞うことはこれまでにもありましたが、同じ西洋音楽の曲をバレーと前後して舞うのは空前の試みだったはずです。公演は梅若とガニオが互いに相手の芸術を尊敬しあう結果実現したものだったそうです。  八十才を過ぎ、近年ほとんど東京に出ない私がわざわざこの公演を見に行ったのは能の「舞」(「舞事」)に興味があったからです。前回書いたように能の「舞」は物語りの担い手である謡が止まり、シテが囃子だけをバックに抽象的な「型」の連続であるパターンを舞うもの。パターンは「舞」の種類が同じならどの曲でも共通です。それでも曲によって表現の差があるのか。そもそも抽象性のある「舞」がなにかの意味を表現するのかという疑問がありました。同じ舞踊芸術でも洋の東西で性質が違うバレエと比較すればなにか分かるかもしれないと期待したのです。  

 意外だったのは、バレエもやはり「型」の芸術のように見えたことです。バレエをよく知らないので見当違いかもしれませんが、そう感じたのは実物の演技ばかりでなく同じダンサーの基礎練習風景のDVDを買って見たからです。

 実演の印象でもバレエは能の「舞」と同じように物語を直接的になぞるようなことはしません。大部分は抽象的な「型」のような動作で踊るのです。しかし能とちがうのは、ところどころに表意性のある仕草(日舞でいう「当て振り」)らしいのがあることでした。つまり舞踏をつうじて物語りを直接的にではないが間接的には表現しようとしているらしい。ガニオ兄妹が踊ったのは有名な振付師による振り付けだそうですから、これが正統なバレーの姿と見てよいでしょう。兄妹は能舞台という狭い独特な空間の制約にもかかわらず堂々たるバレエを披露しました。

 話を梅若の能に移す前に共通の音楽的背景である「タイースの瞑想曲」についてふれておく必要があります。この曲はポピュラー名曲として単独に演奏されますが、もとは十九世紀末マスネ作曲の「タイース」というオペラの間奏曲です(ちかごろは「タイス」という表記が多いがオペラを聞けば旧表記の「タイース」の方が正しいようです)。

 オペラは紀元四世紀のアレキサンドリアが舞台。当時この町はキリスト教以前の異教の支配下にあり、ヴィーナス神の女司祭にして高級娼婦(古代宗教ではよくあったこと)タイースの影響によって道徳的に頽廃しています。そこに一人のキリスト教修道僧が現れ、彼女に神の道の永遠を説いて改悛させようとする。彼女はいったんこれを退けるものの世俗愛のはかなさを思い、また自らの美貌が失われる老いの恐怖から回心するという物語です。「タイースの瞑想曲」はその過程の宗教的な浄化を表現します。

 実際の物語はもっと複雑で、修道僧は内心タイースを愛しており、オペラ終盤でそれが爆発的に表面化します。他方タイース自身の回心にも世俗愛からの脱却の苦悩があり、そういうもろもろの葛藤と苦悩を描くのがオペラ本来の目的です。

 清純ひとすじに聞こえる「瞑想曲」もよく聴くとこれらの苦しみや葛藤が暗示されています。音楽的には曲の中間部で旋律が短調に転調し、世紀末風の複雑な和声がつけられています。ガニオのバレーはこの裏側の世界を色濃く表現するようには見えませんでしたが、バレー通が見ればわかることがあったでしょう。

 しかし背後に暗い影があるにせよ「瞑想曲」自体の表現の中心はあくまで「浄化」。それはまた梅若が能によって現したいと考えたものです。アーティストはふつう自らの意図を語ろうとせず能楽師は特にそうですが、梅若は公演に先立つ取材に対しあえて表現したいのは「浄化された『白衣の女』」と答えました(日経新聞文芸欄)。その言葉通り梅若は輝くような純白の能衣装に白い女面をかけて登場しました。

 ただ梅若は一つ大きな変更を行いました。同じ西洋の曲を使いながら物語りの背景をオペラから能の「大原御幸」(おはらごこう)に替えたのです。西洋風の物語は能になじまないと考えたのでしょう。

 「大原御幸」は「平家物語」の最終巻「灌頂巻」(かんじょうのまき)を素材にする能です。場面は平家没落後出家して京都郊外の大原にわび住まいする建礼門院を後白河法王が訪ねて来るところ。この建礼門院が「浄化された『白衣の女』」です。

 両人の背景には因果に満ちた大ドラマがあります。後白河法王は平家と権力闘争をくりかえして最後には平家を滅ぼした張本人。建礼門院徳子は清盛の娘。政略結婚で後白河の子高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生むが、安徳天皇は平家一統とともに壇ノ浦に沈む。そして平家一門は滅亡。女院自身は入水するものの生き延びて出家し、大原の草庵で暮らしている。法王が訪ねて来るのはその悲劇からたった一年後のすべてがまだ生々しいときです。そのような中を最高権力者に返り咲いた法王がわざわざ訪ねてくる。しかもお忍びで突然の訪問です。

 こうした状況下での「浄化」とは一体何でしょうか。ふつうに考えられるのは正反対のことです。権力者に返り咲いた後白河が平家の中心的女性だった女院の零落ぶりをハラスメントよろしく見にやって来る。歴史に残る後白河の行状からすれば考えられることです。そればかりでなく、かつて両者の間には只ならぬいきさつがありました。平家が危機に立ったとき、一門の間には当時中宮であった徳子を後白河に”献上”しようとする動きがあったのです。これは徳子の拒否によって実現しませんでした。

 思うに「浄化」はフィクションです。すべてとは言いません。大原でわび住まいする建礼門院は平家一門の菩提を静かに弔う姿で描かれており、その姿はすでに「浄化」されています。フィクションは後白河法皇の訪問自体にあると考えます。この訪問を裏付ける史料的根拠がないからです(皮肉なことに”献上”の動きは史実です)。

 虚構の必要性は「大原御幸」を記述する「灌頂巻」の性質に由来するものでしょう。「灌頂巻」は「平家物語」全十三巻の最後の巻ですが、いろいろ版本がある「平家」のすべてにはなく、後世の追加という説があります。しかし平家琵琶の系統を中心に伝統的に重要視されており、それはたぶんこの巻によって盛者必衰の叙事詩である「平家物語」に救いがもたらされ、敗者に同情的な日本人の心に訴えるからです。

 「灌頂巻」の後白河法王は、敗者の象徴建礼門院を訪ねて来ても権力者として驕慢な態度で臨むことはせず、女院の境遇に同情の涙を流します。そればかりでなく法王は、天上から地獄に及ぶような女院の深刻な体験は仏教でいう「六道」に当たるとし、女院が生きながらにしてそれを果たしたのは仏・菩薩にも匹敵する宗教的偉業であるとたたえます。勝ち誇るライバルから差し出された和解と宗教的敬意。それは悲劇の癒しでしょう。また「平家物語」の無常感を象徴する「祇園精舎の鐘の声」の書き出しに対応する仏教的諦観のエンディングでもあります。もしこの巻がなければ、「平家物語」は出家した平氏最後の男子までが斬られるという無惨なだけの結末に終ります。「灌頂巻」の虚構によって「平家物語」はしみじみと胸を打つ結末を迎えます。そして建礼門院は生きながらにして「六道」を巡る宗教的な「浄化」を達成し、それによってまた平家一門の大悲劇も「浄化」(カタルシス)されたという物語りが成立しました。

 オペラ「タイース」と同じように、この物語りでも「浄化」の裏側には現世の葛藤が渦巻いています。

 「大原御幸」という能はいかにも能らしく簡潔で、能を見ただけでは上にのべたようなことはわかりません。まして今度の上演では物語りを担う「謡」がなく、西洋音楽だけで表現するという困難さがありました。その上原曲「大原御幸」には能としてはめずらしく独立した「舞」の部分がありません。つまり文学的表現無しに囃子だけで舞う部分すら欠けているので、梅若はかわりに新しい「舞」を創作する必要がありました。その「舞」は能の伝統に反して「舞」自体によってあるていどストーリーも反映しなければならない。なかなかのチャレンジだったと思います。

 このような多重的困難を解決する方法として、梅若は一連の伝来の「型」をつないで「舞」を仕上げながら、抽象的な型ばかりでなく具象的な型もふくめて物語性を出しました。能の伝統にないことです。具象的な型の例は「泣きの型」で、「瞑想曲」中間部の苦悩と葛藤を示すために使われました。

 しかし素人の立場で見ると型の理解はむつかしく、また型の知識があったとしてもそれだけでけでこの創作舞の表現内容、つまり「タイースの瞑想曲」の「浄化」が能風に舞われたことを即座には理解できなかったでしょう。すくなくとも私にとっては梅若の事前のヒント、「浄化された『白衣の女』」が必要でした。

 出来映えはどうだったかというと、梅若は「瞑想曲」にうまく乗りながら苦難と葛藤をつうじて「浄化」した「白衣の女」建礼門院を静かに気韻高く舞いました。好演でした。能の原曲では「謡」によって初夏の大原の静謐で美しい自然がうたわれており、装飾がほとんど無い能舞台でかえって瑞々しいイメージを喚起するのですが、心の中でそのイメージを重ねながら舞を堪能しました。

 終わりにちょっと一般論を付け加えておきす。

 二回にわたって能について書いてきました。前回は抽象的な型の組み合わせである能の「舞」にも「言葉にならない意味」があり、これをつかまえることが理解のポイントであるという趣旨のことを書きました。ところがこの「言葉にならない意味」という表現は知り合いの哲学者や哲学周辺の学問をした人たちにとって居心地の悪いものだったようです。たしかに「語りえぬものについては沈黙せねばならない」(ウイットゲンシュタイン)そうですから。また哲学事典で「意味」を引くとむつかしいことがたくさん書いてあります。

 しかし日本語の用法としては「名曲の意味を探る」(インターネット辞書「意味」の項の用例)だの、「その心の模様というか意味の・・・(現れ方)」(玉三郎 舞扇についての発言)だのという例があり、まあそういう日本語として普通の「意味」を使ったつもりでしたが、「言葉にならないなにか」とでも言っておけば無難だったかも知れません。 

  大事なのは、能の「舞」にかぎらず芸術一般において、この「なにか」は「感じとる」もので頭で分析的に理解しようとしても無駄だということです。その「感じる」が一般にいう「芸術がわかる」こと。最近あまり流行らないが小林秀雄はやはり立派で、この事情を「美しい『花』がある。『花』の美しさという様なものはない」(「当麻」)と言っています。この言葉は長く一人歩きしていましたが、もとが能に関するエッセーであることを知る人は多くないでしょう。ただ小林は能の観方など論じているわけではありません。花は美しいと感じるもので、花の「美」などという抽象的なものを考えてもはじまらないと言っているのです。

 例えていえばこれは重力と物理学の関係に似ています。今日、重力の法則や作用は物理学によって極めつくされており、地球の重力を利用して探査衛星の向きを変えて金星に飛ばすような芸当までできるようです。しかし物理学をいかに学んでも、われわれはそれによってわれわれ自身にかかる重力を体験することはできません。近ごろのエレベーターはよくできていて重力を感じないように設計されています。重力を感じるためには遊園地に行ってジェットコースターに乗るか、より直接的にはパラシュートを抱えて飛行機から飛んでみるほかないでしょう。ジェットコースターなどが芸術鑑賞に当たります。

 ただジェットコースターなどとちがって芸術は鑑賞しても必ず「感じる」わけではありません。芸術からなにかを感じるためには工夫が必要です。能の「舞」については、今回話題にした「浄化」のように、能楽師がどういう「想念」をもって舞っているかを知る、あるいは想像してみることが助けになります。前回この「想念」が「言葉にならないなにか」のすべてをカバーするかのように書いてしまったのは行きすぎで、「なにか」を感じるためのヒント、あるいはヒントになるイメージとでも考えた方がよいでしょう。

 能の場合、「想念」の例としては「浄化」のほかに「滅びの美」とか「追憶の恋」などいろいろありますが、直接それを知ることは困難でも、想像できる力を養っておく努力が必要です。

「想念」ばかりではなく、芸術鑑賞には手がかりとしてちょっとした知識も有益です。私が試行錯誤の末に知ったように、能の「舞」が抽象的な「型」の連続で物語的意味を表すものではないと知れば、「舞」の中にストーリーを探す無駄な努力をしてイライラしたり、挙げ句のはてに眠くなったりしなくてすみます。物語を探さず身体技の美しさ追っているうちに(演者によっては)芸の深さや能の奥にあるものが感じられて来ます。

 こういうことはたとえばクラシック音楽についてもいえます。ちかごろの若い人は知りませんが、日本人はクラシック音楽でとかくメロディー(と言って悪ければ上声部)ばかり聴く傾向があるように思います。しかし楽式、ハーモニー、対位法などの知識があればより豊かな鑑賞ができます。音楽は時間の芸術ですから、時間を構造によって満たしてゆく必要があります。これらの技法を意識すると、それまで訳のわからなかったパッセージが面白く聴けるようになります。対位法はとくにそうです。対位法はルネッサンス以来西洋音楽の基本で、バッハ以降の近現代音楽でも気の利いた作曲家はみな使っています。音楽理論を学ぶのは大変で私にもできませんが、どういうものか知っているだけでも鑑賞には役立ちます。

 芸術から「感じる」のは「ちょっと面白い」や「ハッとする」に始まって甘美な陶酔や崇高な感動に至るまで幅があります。それを分類するのは美学の仕事ですが、美学を学んでも感じ方は身につきません。また、感じる作用の本質について考えるためには脳科学や近年問題の「身体性」の知見が必要になってくるでしょう。しかしまず感じないのでは話になりません。なにも感じない芸術鑑賞ほど空しいものはありません。そしてせっかく感じるのなら大きな感動を体験したいものです。  昔の能の名人が舞うと感動で席が立てないことがあったそうです。能はそういうものがある世界です。名演に出会う機会に備えて感動をとり逃さない用意をしておきたいと思います。