第13回「米空軍による日本爆撃」

元駐タイ大使 恩田 宗

米空軍の日本本土空襲の基地となったマリアナ諸島は1944年7月陥落した。その時の凄惨な有様を従軍特志看護婦の菅野静子が手記「サイパン島の最期」(戦争文学全集)に書いている。傷口を蛆虫の白い山で覆われたり片腕を肩から砕かれたりした傷病兵を手に余る程収容し治療より死体埋葬に忙しい野戦病院が山中をのたうつように逃げ回り最後は全員玉砕するという話である。彼女も手榴弾で自決したが死にそびれ捕虜として米軍のトラックで運ばれる。彼女は日本兵や市民の死体が累々と横たわる地域を通るときは「見せて下さい!」と身を起こして眺め岬に来ると荷台から降してもらい海に浮かぶ無数の遺体が浮沈するのを見つめたという。死者達が自分達の哀れな最期を故国に知らせて欲しいと彼女に向って叫んでいたのだと思う。三島由紀夫は、歴史に証人として選ばれた人間は生き残されて事の顛末を世に伝える役目を負わされる、彼女はそういう人だと書いている。

 マリアナ諸島からの日本空襲はその年の11月に始まったが当初は飛行機工場等戦略目標を高高度爆撃していたが命中精度が悪く効果が上がらなかった。指揮をとったC・ルメイ少将は翌年3月10日の東京大空襲(334機、死者9万数千)から攻撃を都市への無差別爆撃に切り替えた。ルメイは日本をscorched & boiled & baked to deathする、一晩で10万の市民を殺すことになっても仕方がない、万一負ければ戦犯だろうと言っていたという。当時幕僚として爆撃計画作成に当たっていたR・マクナマラ元国防長官は、戦争では不必要に人を殺す、原爆二つの投下を含め67都市を焼き尽くしその市民(計30数万)を殺したことは米国が達成しようとしていた目的に対しproportionalではなかった、太平洋での戦争は双方が抱いた人種的悪感情に増幅され欧州でのそれと比較しより野蛮でより残酷なものになったと述懐している(The Fog of War)。

 終戦の前月の7日、千葉、甲府、清水、下津、明石が爆撃された。平成になり甲府を空襲した(132機、死者1127)元兵士達を訪ねたところ、「甲府? 記憶にないな、I suppose nothing eventful happened to us that night 」と答えたという。B29での爆撃は昼夜2日にまたがる往復15時間の飛行で休みなしの出撃(7月2日下関、4日徳島、7日甲府、10日岐阜、13日宇和島)はきつかったらしい。彼等にとって戦争は「相手の顔も見えずimpersonalなもの」で何処でもいい「命令通りに落として逃げるだけ」ということだった。原爆投下機の機長も命令されれば又同じことをすると述べたという。戦争とはそういうものである。

 原爆による死者を含め戦争の全ての犠牲者は彼等の死が無駄にならぬよう戦争を命じ得る全ての国家指導者に彼等の話しを聞いて欲しいと願っている。