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ルーマニアから帰って

  • 甲斐 哲朗

前駐ルーマニア大使 山本 啓司

 最後の任地ブカレストから帰って半年になる。パーティーで久しぶりにお目にかかった先輩から、ルーマニアといえば今はどんな国になったのかな、と聞かれて、その場では十分なお答えが出来なかった。

 かつてであれば、オリンピックを通じ「白い妖精」と讃えられた体操のナディア・コマネチの国、あるいは冷戦時代にモスクワに反抗し西側にもてはやされながら冷戦終了とともに夫妻共々公開処刑された独裁者ニコラエ・チャウシェスクの国、あるいは有名なホラー映画「吸血鬼ドラキュラ」伯爵の国だといえば、だいたい相手は「ああ、そうか」と納得した時代があった。だが、今や世代も時代も変わり、そういう時代が遠くなった。

 という訳で、この紙面をお借りして、最近の日本とルーマニアとの交流の一端を紹介させていただく次第である。

 冷戦終了とともに共産主義を廃し国名を「ルーマニア」とすっきり改称したこの国は2007年念願のEU加盟を果たし、おそらく2世紀に古代ローマ帝国の版図に入ったダキア時代以来、あるいはオスマン帝国からの独立以来の大変革で国創りに励んでいる。ちなみに、「ルーマニア」という国名はルーマニア語では「ロムニア」と発音し「ローマの国」を意味する。そのことをルーマニア国民は、自らはローマ・ラテン文化の継承者として誇りに思っている。最早神話に近い話だという人もいるが、これがこの国の人々の精神文化の支えになっていることは間違いない。

 確かに数字で見れば、新生ルーマニアはEU28加盟国中、いまだ貧しい国のひとつであるが様々な民族がいて文化的には豊かな歴史と背景をもつ国である。そこは欧州の国である。ルーマニアという国は、ざっといえば、かつて南半分はオスマン帝国の宗主権下にあったバルカンの国であるが、カルパチア山脈の森を越えた北半分はトランシルバニアと呼ばれドイツ人やハンガリー人が勢力を誇ったオーストリア・ハンガリー帝国の版図の一部だった。民族大移動の時代以来、多くの民族がこの地に展開し、あるいは通過していった。ハンガリーとの国境の町、アラドを訪ねた時には、若い考古学者が、私に最新の発掘の成果を見せながら説明してくれた。

 そのトランシルバニアのほぼ中央にトゥルグ・ムレシュという小高い丘に囲まれた瀟洒な町がある。かつてはハンガリー人が多数を占めて繁栄した町で、中央には往時を偲ばせる立派な文化宮殿がある。私もスピーチの冒頭はハンガリー語で挨拶した。平成26年度外務大臣表彰受賞者の指揮者、尾崎晋也氏はこの宮殿の一角に住居を与えられて滞在していた。冷戦終了間もない1994年から現在に至るまで、国立トゥルグ・ムレシュ交響楽団の常任指揮者である。毎年シーズンに2ヵ月滞在し指揮棒を振るうとともに、日本から演奏家を招待する。見込まれた指揮者としての力量はもちろん、気さくな人柄で市民やルーマニア政府からも高く評価され、なによりも地元に溶け込んでいた。ルーマニア語やハンガリー語はもちろんいくつもの外国語を話す才人である。日本政府の文化無償でオーケストラの古い楽器を一新し、歳月をかけて国立トゥルグ・ムレシュ交響楽団育ての親のひとりになった。

 同じくトランシルバニアには中世ドイツから移住してきたザクセン人の造ったブラショフという町がある。ドイツ語名をクローンシュタットといい、今なお中世の面影を残し、トランシルバニアを代表する美しい町のひとつである。かつてはドイツ人やハンガリー人が多数を占めていたが、現在はルーマニア人が大多数を占める。この町と1992年以来、日本の武蔵野市が友好都市として交流を続けている。その縁を取り持ったのが尾崎氏の後輩指揮者にあたる曽我大介氏だ。留学先のルーマニア国立音楽院を卒業した曽我氏は、この町の国立交響楽団の指揮者をしていたが、ルーマニア革命後の交響楽団の惨状を見兼ねて、ご自身の出身地である武蔵野市に支援を要請した。これに応えたのが、時の土屋正忠市長(現在、衆議院議員で総務副大臣)。交響楽団を日本に招待して、両市の交流が始まった。現在の邑上市長になっても市長レベル・市民レベルで交流が続いており、ブラショフにある日本武蔵野センターでは、市から派遣された日本語教師が現地のボランティアとともに日本語教室を開いている。生徒たちの日本への関心は高く、武蔵野市は毎年2名のホームステイを引き受けている。ブラショフを訪れる度に、必ず町の中で日本人観光客に出会った。今も音楽を共通言語とする日本人指揮者、菅野浩一郎氏が在住し、ルーマニアと日本を往来しながら活動している。

 ルーマニアの優れた音楽家たちも、活躍の場を世界に求め自国にとどまってはいない。人口2,000万人の国で体制転換後、国外に職を求めて流出した人口はおよそ350万人といわれる。特にEU加盟後は技能・頭脳流出が加速した。例えばフランスにおける外国人医師のなかで最も数が多いのが実はルーマニア人医師だといわれている。ルーマニア語はラテン語に一番近い言語だといわれ、イタリア語などのラテン系言語は大して苦労しなくとも解ってしまう。スペイン、フランス、イタリアにざっと各100万人前後、更にドイツ、英国、米国、カナダへ。

 ある夏の日の午後、大統領府での室内コンサートに夫妻で招待され最前列に席をもらった。ピアノとバイオリン、チェロとの素晴らしい三重奏だった。演奏を終えた美男のバイオリニストが挨拶に来た。なんだろうと思ったら、「私はバカンスのために帰ってきたばかりですが、日本で働いています。夏が終わったら再び長崎に行ってハウステンボスで毎夜演奏をする契約です」

 彼は満足そうに私達に語りかけた。恐らく日本で頑張っているルーマニア人は彼だけではあるまい。

 さて、ブカレストを代表する音楽ホールといえば、旧市街の中心部にあって、現在は美術館になっている旧王宮の向かいにあるアテネ音楽堂と、そこから程遠からぬラジオ放送音楽ホールだ。音楽堂は、1881年にドイツのホーエンツォレルン家から王様を迎えて誕生したルーマニア王国の国民がひとりひとりお金を出し合って建てたという大理石の建物で、ルーマニア国民の誇りになっている。なお、完成したのは1888年で、革命後の修復では日本財団も貢献している。

 在任2年目の2014年、「望郷のバラード」でその名を高めたバイオリニスト、天満敦子さんが愛器ストラディヴァリウスを携えて久しぶりにブカレストに来られた。政情もまだ不安定な92年に招かれて、初めて訪れたブカレストだったが、演奏会は大成功だったそうだ。天満さんからは当時の思い出を公邸でゆっくり聞かせていただいた。その天満さんとルーマニアの「望郷のバラード(バラーダ)」との出会いについては、これまた、ひとつの物語になるようなエピソードが存在するらしい。哀愁を帯びた美しい曲を作曲したチプリアン・ポルムベスクは、当時まだオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあったトランシルバニアの独立を夢見ながら夭折したという。

 その日アテネ音楽堂の席を埋め尽くした聴衆は、前半のオーケストラとの共演を終えて、後半のソロ演奏では今再び天満さんの弾きだす名器の調べに、水を打ったような静寂のなかで居住まいを正して聞き入っていた。曲名「望郷のバラード」は、冒頭の「望郷」の部分は日本人が付けた形容詞のようであるが、その音色は間違いなく聴衆のこころ奥深く沁み渡っていくが如くであった。まさに、日本人音楽家との心の交流であった。

 また同年夏の終わりには、2年に一度ブカレストに欧州の一流のオーケストラや演奏家たちを集めて開催されるジョルジェ・エネスク国際音楽祭に、この音楽堂で大友直人氏が日本の楽団の指揮を執られた。

 一方のラジオ放送ホールはもっと広いがアクスティックが素晴らしい。3年間の任期中に毎年来られて、立ち見が出るほどの聴衆から鳴りやまぬ拍手喝采を奪ったのは若きジャズピアニスト、上原ひろみさんであった。今や“世界の上原ひろみ”であるが、快活でエネルギッシュな彼女のツアー演奏を心待ちにするファンはルーマニアにも多い。アンコールに応えて縦横無尽の演奏を終えた彼女を館員たちと一緒に楽屋に尋ねると、疲れの片鱗も見せずににこやかに記念撮影に応じてくれた。

 さて、音楽はここまで。ルーマニアといえばもう一つ、今やアビニョンやエジンバラに次いで欧州三大演劇祭の一つとまで言われるようになったシビウ国際演劇祭がある。演劇に関心のある方ならご存じだろう。故中村勘三郎、串田和美、野田秀樹、野村萬斎など著名な演劇人がすでに参加している。20年以上の歴史を持ち、昨年も70ヵ国、350の団体が参加した夏の一大演劇祭である。日本からも毎年様々な劇団が参加する。そしてルーマニアで操業する日本企業もスポンサーに名を連ねている。ブラショフと並んで、シビウもまた中世以来の豊かな文化遺産に恵まれたトランシルバニアを代表する古都だ。この町は2012年縁あって日本の岐阜県高山市と友好都市交流を始めた。覚書の調印のために高山市を訪れたのはドイツ系出身の現大統領、当時のクラウス・ヨハニス市長。大統領になったヨハネス氏が私に言った。「だから、私は日本に特別の思いを抱いている」。

 国際交流基金は、2015年度国際交流基金賞をこのシビウ国際演劇祭に授賞した。日本とルーマニアとの関係も、こうして新しい交流を広げている。ルーマニアといえばどんな国、先輩の御下問に答えられたか分からないが、これからの交流が楽しみな国であることは確かだ。欧州で移民・難民問題の嵐が吹き荒れる中、任国の益々の発展を祈って帰ってきた。

(平成28年4月記)