第11回「慰問袋と慰問の手紙」
元駐タイ大使 恩田 宗
サウジアラビアの首都リアドにある日本大使館で勤務していた時のことである。1990年の12月も終わりの頃でクエイトに居座った55万のイラク軍と米国主導の多国籍軍との間で戦争が始まるかもしれないという緊張した状況にあった。その数でイラク軍に匹敵する米国軍はクエイトの南部国境に接するサウジアラビアの砂漠に展開していて既に数か月が経っていた。
そんな頃米国ワシントン州在住の4人の日本婦人から大使館に手紙が送られてきた。送り状によれば、米国では女性達がグループを作って前線の兵士に慰問袋や慰問の手紙を送っている、テレビで見ると砂漠での生活は大変らしい、日本も医療団を派遣したと聞いたので日米国際結婚の自分達も何かしなければと思い日本の医療団に慰問の手紙を書いた、大使館から渡して欲しい、ということだった。4通とも日本語で書かれていて「砂漠の地でご奮闘の皆様へ」という書き出しの心のこもった手紙だった。
米国の市民が前線の兵士に慰問袋を送る習慣は19世紀に遡るらしい。日本では日露戦争のとき婦人矯風会が米国のcomfort bagを慰問袋と訳して満州の戦地に100個程送ったのが始まりだという。日本ではもう遠い昔の過去のものとなったが米国では(military )care packageと 呼び変えて今も盛んに行われている。色んな種類の既製パッケージがあって自分の身内や知人に或いは軍が注文に応じて選んでくれる兵士に送料は軍の負担で送るのだそうである。注文は出身地、勤務地、兵科、年齢、趣味などあらゆる選択肢で指定する事ができる。慰問袋を貰っていない期間が一番長い兵士などという指定もできるという。米国は第二次世界大戦以降の68年間のうち戦争をしていない期間は14年だけだった。全世界に威を張る軍事大国米国を支えているのは慰問袋に象徴される軍と兵士と市民の間の強い信頼と連帯の関係である。
あの婦人達の手紙が到着した日は皮肉なことに目的を果たせず日本に戻る医療団の最後の4人を送別した日だった。日本からの医療団の派遣は発表してから4ヶ月が過ぎていたが、前線の近くには行かない、軍の病院では働かない、市民や難民は手当するが兵士は治療しない、という日本側の出す条件が現地のニーズと全くかみ合わず頓挫してしまったのである。渡す相手の居ない手紙をどうしたか、記憶をたぐり日記もめくってみたが確認出来ない。送り返すのは簡単だが彼女達をして母国に失望させたり米国人の夫や友人達の手前恥をかかせるようなことになるのは忍びない。多分仕方なくそっとそのまま預かって置くこととしたのではないかと思う。未だに心につかえの残る出来事だった