第10回「横浜開港と英仏駐屯軍」

元駐タイ大使 恩田 宗

横浜開港と英仏駐屯軍

 幕末の横浜開港当時の絵地図には居留地左の山手に英仏駐屯軍の基地が描かれている。欧米五ヵ国との安政の修好通商条約(一八五八年署名)では軍隊の駐留など認めていないがなし崩しに押し切る形で居座ったものである。

 当初は公使館警備の兵士が上陸し公使の外出や江戸参府のおりの警護などをしていた。その後居留民とその資産保護のための守備隊が駐屯するようになった。各地で攘夷を主張する騒擾事件が起こるようになり幕府も黙認せざるをえない状況だった。最後は生麦事件で浪人の横浜来襲が噂されるようになると英仏両国は攘夷派対策に軍事支援を受け入れるよう特に英仏軍による横浜防衛を認めるよう要求してきた。

 そんな状況のなか上洛中の将軍家茂は迫られて攘夷決行を奉答させられた。一八六三年六月六日である。江戸に居た外交担当閣僚の小笠原長行は同月二十四日勅諚だとして各国に諸港の閉鎖と居留民の退去を通告するとともに最後通牒を突きつけられていた生麦事件の法外な賠償金をあっさり支払った。フランスの外交記録によると長行はこの通告の前日の深夜に神奈川奉行を通じ仏公使に対し幕府は攘夷実行の意思はなくむしろ各国が激しい憤りを表明するよう望むと伝えている。同奉行は加えて横浜居留地の警衛は仏海軍提督に任せると述べ二十六日付書簡によりその旨確認したという(「幕末のフランス外交官」矢田部厚彦編訳) 

 賠償金の支払も横浜防衛の委任も急進開国派に擁せられた長行が江戸留守居の幕閣にはからず全て独断で行ったことである。幕府の外交記録「続通信全覧」によると江戸城では砲艦を海に並べて脅迫する英仏の要求にどう応えるか徹夜で会議相談を繰り返したがなかなか結論が出なかった。「廷聴ヲ恐レ内事ニ拘泥シ後日ニ患難ヲ残ス」より「一時ノ権道ヲ以テ彼ガ望ミニ随(まか)スル二如ズ」との意見が通り城内で廟議一決したのは六月末か七月一日である。七月二日若年寄と神奈川奉行に対しこれは現場限りの一時的処分であり確約の形としないよう言い含め英仏公使及び両国海軍提督に応諾の回答をさせた。要求されて若年寄が翌日両国海軍提督に出した書簡の文面はこうである。「当分」の居留地警衛は「商議の上足下の見込に応じ」たと「神奈川奉行より承知」したが「右者は余に於ても同意」である。姑息なやり方だが前後のつじつまが合い幕府上層に責任が及ばぬようにもなっている。

 英仏軍の本格的上陸はこれで始まり最盛期には三千数百人で(平均約千人、艦船乗組員を除く)基地建設の経費は幕府が負担した。英仏は維新政府の強い引き揚げ要求に直ぐには応じなかったが明治八年になり撤収した。理由は諸説ありはっきりしない。 

 急進開国派の手の込んだ外交の評価は難しい。買弁行為だったとの批判がある。国内と国外の食い違いを外交当局が取りつくろって凌がざるを得ない場合はあるが外国軍の駐留となると話しは別である。危ない綱渡りであった。ただ外交も政治だと考え結果だけで判断すれば言われるほど悪くはない。国家としての体を成していない混迷した状況にあって破局の危険を回避し駐留は「当分」ではなかったが幸運にも恵まれ長期に及ばなかった。

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