第9回「ハリスとペリー」

元駐タイ大使 恩田 宗

 築地の聖路加病院の辺りから隅田川にかけては慶応から明治の初期は外国人の居留地だった。幕府が安政の修好通商条約の履行のため約3万坪を造成し外国人に売り渡した所である。外国公館や商館・牧師館や洋式ホテルが並び西洋の香りがしていたという。

 安政の条約は1858年に欧米5ヵ国と締結された。外交使節の交換や貿易とそのための外国人の居留地への来往や居住を認めている。実質的に日本を開国した条約である。それへの道筋をつけたのが米国総領事(後に弁理公使)のタウンゼント・ハリスである。

 マシュウー・ペリー提督が1854年に締結した日米和親条約は日本が結んだ最初の条約でありその歴史的意義は大きい。ただ中身は下田と函館への米船の寄港と漂着船や漂着民の保護などで通商や人の出入国は入っていない。ペリーの日本遠征は大艦隊を派遣し日本をこじ開けるという米国の国家プロジェクトだった。来てみるとコロンブスの卵で砲艦から空砲を何度も撃って脅すと条約締結に応じた。条文交渉自体は1ヶ月で済んだ。通商と人の往来を認めさせることは諦めたからである。彼は凱旋すると大歓迎を受けた。議会に提出した挿絵つき「日本遠征記」は市販されベストセラーになった。

 ハリスはその2年後オランダ語通訳のヒュースケン一人を連れて下田に着任した。ペリーのやり残した貿易の扉を開くためである。彼は渋る幕府に世界の情勢を説き口だけの脅しも使い粘り強く交渉し条約締結に持ち込んだ。2年近くかかった。侘しく慣れない食住のためか体調を崩し鬱屈が高じると平素飲まない酒を手に深夜一人泥酔したという。孤独な性格で生涯独身だった。日本滞在6年で惜しまれて帰国したがその頃米国は南北戦争で人々の関心はもう日本になかった。日記の一部が没後17年たって出版された。

 中学高校用の歴史参考書を見るとペリーが日本を開国しハリスは修好通商条約を締結したと書いてある。日本語でも出版されているThe Story of Americaではペリーは鎖国日本を国際社会にひきだした人物としてその事績に2頁さいている。ハリスのことは残された数々の障害を打破した領事だと2行で解説しているにすぎない。日本を泰平の眠りから醒ましたのは確かにペリーだった。しかし日本を「開国」させた功績と名誉を彼一人に帰すのは公平ではない。井戸に例えればペリーが水脈の在りかを見つけて旗を立てハリスが岩を掘って水を出したということである。ハリスは日本到着のとき自分が将来日本の歴史に「名誉ある記載」をされるよう希望すると日記に書いている。誰でも自分の事を後の人が正当に評価するよう望む。しかし歴史はしばしばえこひいきをする。

 ハリスは日本側との交渉に先だち2時間にわたり熱烈な演説をした。蒸気船により交易が盛んになり西洋各国は世界のあらゆる国と自由な交易をしたいと考えている、英仏などはそれへの障害は戦争してでも取除くつもりでいる、日本は先ず平和的で領土的野心のない米国と交易の条約を結び先例を作っておくのが得策である、という趣旨だった。それに対し老中堀田備中守は日本は米国と事情が異なって重要問題は多くの人と相談する必要があり決めるのに時間がかかると応えたという。意思決定に手数がかかるのは昔からである。