第8回「老いということ」

元駐タイ大使 恩田 宗

東京大学の辰野隆仏文学教授は定年後も駒場の教室で教えていた。その頃のことについて「(先生は)お茶目で若々しかった。60歳の若さなのだから無理もないが・・・」と書いてあった。元生徒の80歳近くなってからの回想である。人が若いか年取っているかは相対的なことである。

しかし老いは青春と同じで或る一つの身体的・精神的な状態である。誰でも人生仕上げの時期になるとふとした事で自分の肉体や精神に老化という非情なプロセスが進行していることに気付かされる。老いは近いとの予告である。ただいつ老いの境地に入るかは人により早い遅いがある。一般論で言えば心身の衰えを痛感するようになり自分にとっての次の大事は死であると自覚したとき老いたことになる。それからどうするかは人それぞれで老いてなお命あるかぎり走り続ける人もいれば静かな隠退生活で余生を送る人もいる。

老いに共通するのは身体に関する悩みである。ゲーテの格言集に年を取るということは新しい一つの仕事につくことだとある。身体の修理修繕や維持管理だけでも若い人には想像できない程の時間と資金と労力を費やさなくてはならなくなる。その上に歳に応じた私的社会的な活動をしなけなければならない。亡くなった父は年取ると生き続けるだけでも大変な作業だとこぼしていた。

精神的には記憶力や集中力が衰えるが長い人生で磨かれた知恵はそう簡単には曇ることはない。利害の葛藤から遠のくので人の話やものの動きがより透けて見えるようにもなる。昔から東洋の知識人が理想とし老いてはじめて可能となる穏やかで高く澄んだ心境に到達する人もいる。ロングフェローは詩の中で暗くなると日中見えなかった星が見えるように年取ると若いとき見えなかったものが見えてくると言っている。

残念だがそうした精神的な能力は次の世代に渡すことができない。蓄積した知識と豊富な実体験のミックスから生まれる叡智は話したり書いたりで他人に譲って渡すことはできない。日本でも過去に遡れば偉大な政治家がいた筈がその叡智が引き継がれているようには見えない。

ギリシャ神話ではシジフォスが丘の上に石を運び上げるという労働を無限に続けさせられる。それを人間一人が一生かけて下から押し上げ息絶えたところで石は再びふもとに落ち次の世代がまた一から改めてやり直すという話にするとこの叡智の引き継ぎの問題に当てはまる。老いた者は後から来る人達には同じおろかな間違いや苦労をして欲しくないと思う。しかしベトナム・アフガニスタン・イラクの後でのシリアでの無惨な成り行きを見ていると人間の営みが大も小も善も悪も果てしない繰り返しのように思えてくる。

日が暮れた空に見えてきた星を若い人達にも見せてやりたいと思うことがある。