ヴィシーからの手紙

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日本学術会議事務局次長 千葉 明

「ヴィシー第一信」

 母が他界したのを機に実家から引き揚げた遺品の中に、戦時下の欧州から東京の父宛に届いた祖父母の手紙類があった。通し番号が振られているのは、祖母の几帳面な性格を反映した訳ではなくて、どの手紙がいつ日本に届くか、当時は皆目見当がつかなかったからである。最初の「ヴィシー第一信」にしてから、出張者に託しスイスから差し出す旨の注意書きがある。手紙の内容と併せ、当時の在欧邦人の置かれた状況が浮かび上がる。

 祖父・千葉蓁一は昭和十七年十月十四日、特命全権公使のまま、中立国ポルトガルから「佛國出張」を命ぜられた。東條英機の署名があるその辞令には、「兼任大使館參事官」以外に具体的な任務は記載されていないが、フランスの降伏とペタン政権の成立によってヴィシーに移った三谷駐仏大使に代わり、在パリ帝国大使館の留守居といった役回りだった趣である。

 昭和十七年十一月十日付の「ヴィシー第一信」は、十月三十一日午後に車で着任し、ナチスドイツが押さえていたホテル「マヂェスティック」に逗留したところから始まる。蓁一は到着後すぐ、ドイツでの大公使会議出席のためベルリンに出張している。リスボンからの赴任途次立ち寄ったマドリードで受け取った電報の中に、十七歳だった父の「父上ご健闘を祈る」との伝言を見つけ、大笑する心のゆとりがあった。戦時下の外務省は留守宅からの伝言を電報に載せていたものらしい。

 ヴィシーは敗戦の都であり、ホテルは軒並み官庁として接収され、「気の利いた別荘は皆大公使館または領事館」とされたと手紙は教える。帝国大使館は町中のビルに陣取った模様で、玄関前で館員家族一同写した写真に、祖父母と並んで、故本野盛幸大使のご尊父、本野盛一書記官夫妻の姿もある。

パリ留守居役

 蓁一の仕事は三谷大使の代理が多かったらしい。昭和十七年十二月二十九日付の「ヴィシー第三信」には、十二月七日から十四日までパリ出張の記述が見えるが、これは三谷大使とともに開戦一周年記念行事に出席するためであった。そのすぐ後の元旦拝賀式は、大使は動かず、蓁一が再びパリに派遣されて挙行しているから、当時の物事の優先順位が分かる。

 祖母も時折祖父に伴って、若き日を家族で過ごしたイタリアやパリに出かけたらしい。陥落から二年を経たパリは、まさにドイツ人の天下だった。

 「一流だったティールーム等はその入り口にサクを一寸おいて、独人のみ出入出来るのです。立派なホテルは皆独の役所等になって居て、その前すら道路上にサクをおいて、通ることも出来ません。一度巴里でドイツ人経営のレストラン(前は佛人のものでしたが)に行きましたらば、肉も魚も立派なものがありお菓子、リキュール、コーヒー(勿論砂糖つき)まであり、食事中は音楽がなりひびいてゐて、一寸戦前と変わらないのにはおどろきました」

 業務がパリ留守居役だったため、ヴィシーに拠点を置いていては却って不便であり、祖父母はパリに移り住むこととなる。昭和十八年三月十六日が「巴里第一信」の日付である。

 「巴里には二月十七日からきて居ます。一か月の中三、四日程ヴィシイに行かれればよいので、いよいよ家を持つ事に決めました。しかしそのアパートがなくて閉口して居ます。つまり、ドイツがよい家又ホテルは殆ど徴発してしまつたのです。それで、目下独軍にたのんで、その中の一軒をかしてもらうやう交渉してゐます。」

 パリの物件もナチスドイツが占拠しており、住居が見つからないため、三谷大使がヴィシーにいる間、祖父母は公邸に仮住まいしていたらしい。だから大使が用務でパリに出てくるたびに退去することとなり、不便だったようだ。

 「三月二十八日 今日又ホテルブリストルに引越しました。大使が後日来巴されますので官邸を出ましたわけ」(昭和十八年三月二十一日「巴里第二信」)

 ドイツ占領軍にわたりをつけて交渉しなければ家一つ手に入らないが、それでも四月十日にはアパートが斡旋されたから、同盟国外交官はまだいい。フランス人は「若い男子はどんどん独へつれて行かれて工場その他で働かされるのです」と悲惨である。

 斡旋されたアパートはブローニュの森の近く、アンリ・マルタン街のイタリア人の借家だった。なぜ空いていたかというと、そのイタリア人は「ジュイフ」(ユダヤ人)で、逃げたのだという。当時の写真を見るとなるほどガランとしているので、ドイツ軍が略奪したのでなければ本当に逃げたのだろう。無事を祈るばかりである。

ドイツの天下

 こうしてパリに寓居を定め、曲がりなりにも邦人権益保護の任務を開始できたが、この頃からやや雲行きが怪しくなってくる。昭和十八年四月十三日付「巴里第三信」は、連合軍によるパリ爆撃を報告している。

 「去る四日の日曜の午後、英米機が巴里をおそひました。ルノーの工場を荒し、ロンシャンの競馬場、ブローニュの森をもついでに見舞ひました。折からの大好天気、日曜日を利用して森には多くの人が出ており、相当の死傷者となりました」

 この爆撃は記録に残されており、標的はルノー工場、競馬場はコラテラル・ダメージであるが、死者四百三人のうち五十四人が競馬場で落命したとある。気丈な祖母もさすがにこのときは「本年中に欧洲に『アディユ』つげられたらば幸ひです。」と綴っている。戦況面白からず、閉塞感が忍び寄ったのだろう。

 「最近の新聞で、東洋向けの郵便物一切スヰスでは受け付けぬ事になったと云ふ事を知りましたので、がつかりしました。いよいよ手紙も出せなくなりました」という事情が、友軍へのやんわりとした苛立ちとなって表現されている。

 「ドイツの兵隊たちのうたふ声が毎朝八時に聞こえてゐましたが、パーク(復活祭)の休み中は聞こえませんでした。やはり戦時中は全然休んでいるよりも、交代でも日常行ふべき行事はした方が頼もしく思はれますね。勤勉なのは我国が世界中で第一と思ひます」

 そうは言っても、パリにおけるドイツの天下はゆるぎない。日常もドイツ抜きには何事も進まない。

 「巴里ではドイツ語も相当必要となりました。日常生活はもちろん万事佛語ですが、交際は独人と多く、又独人の居るホテル等への電話等、なかなかよく使ひます。随って父上も、幸ひリスボンの時の様に座る暇もない程忙しいこともございませんので、毎日独語をかかさず勉強して居られます」

帰朝発令

 こんな毎日ではあったが、祖母の願いは程なく叶えられ、蓁一は六月に帰朝発令となり、その後スイス経由欧州を離れて、アジアの西端イスタンブールにたどり着くこととなる。とりあえず「欧州よ、さらば」である。

 外務省はおそらく留守宅の父に発令の件を通知しているはずだが、祖母も

 「明朝巴里を出発される某氏が、非常に早い日本向けの便があるから急いで手紙を留守宅へお書きなさいと云はれた」

 と急かされるまま発令の件を記し、

 「あと六カ月もすれば、一夫さんの望み通り、父上を上座に母の料理を一家五人で食べられる時が来ます。楽しみに待ってゐて下さい。」

 と希望をつないでいる。

 こちらの望みはしかし、ついに叶えられることはなかった。

 昭和十八年七月、祖父母はベルリンを訪れる。祖母は大島大使夫人の計らいで、帝国大使館前でコッホ博士未亡人と記念撮影している。うららかな初夏の日差しを浴び、のどかな印象のある写真で、撮影のいきさつを記した葉書は全盛のヒトラー総統の肖像だったりする。しかし、ナチス占領下の欧州は磐石から程遠い。

 「巴里のパンは黒く『ワラ』の様なものが時々這入つてゐます。白パンはありません。ここ(ベルリン)では白も黒もあり遥かに美味しいです。パンは巴里が欧洲第一に美味しかつたのに、どうもおかしな様に変はりました」

 パリに戻ると、昭和十八年八月十三日付「巴里第五信」をベルリンに行く人に託す。

 「巴里は毎晩(日中も折々)の様に警報が鳴りわたり、折には高射砲の音が聞こえたりします。巴里へは彈(爆弾)の投下はこの所ありませんがドイツに行く途中のものでせう。伯林と違って、ここできく警報はのんびりとして居ます。」

 ということは、ベルリンはやはり張り詰めていたのだろう。その緊張の糸を、今度は友軍への信頼に託して持ちこたえている。

 「毎朝起きて独兵士の歌ふ声が聞こえ、その音が窓の下に聞こえて来ると、身のしまるうれしい気持です」

 今から見ると違和感があるが、ドイツは同盟国、戦争は既に始まってしまっている。時代の気分とはそういうものなのかもしれない。

パリ出発

 この秋、祖父母はパリを離れ、祖国へと遠い未完の旅に出る。昭和十八年十月一日、外務省は留守宅の父に、手書きのはがきを寄越している。

 「千葉公使夫妻九月三十日巴里出發歸朝ノ途ニ就カレタル旨在『プィシィ』三谷大使ヨリ電報有之候條此段通知申進候也 昭和十八年十月一日 外務大臣官房人事課」

 昭和十八年十一月十三日、イスタンブールでソ連の通過ビザを待っていた蓁一は、アンカラの帝国大使館からの電話で、トルコ出張命令を受けたことを知る。事実上の帰朝発令取り消しである。やがてアンカラに身を移し、続々帰朝する同僚や邦人を横目に、館務従事を開始する。

 この頃祖父母の心の支えの一つだったのが、東京から届いた「輔仁會雑誌」であった。父が編集委員を務めた学習院の文芸誌である。軍国主義いよいよ濃厚、父を含めた学生達が異口同音に皇国のため一身を捧げる覚悟を吐露する中、ひとり平岡公威、のちの三島由紀夫だけは純文学作品を寄せているのが、意外といえば意外、さもありなんといえばさもありなんである。

 そんな中、

 「幸い、満洲国の外交官の人々が八月初旬、殆ど最後のすべり込みと云ふ形で当国に来られ、九月四日当地出発帰国される」

 のを受けて、珍しく祖父が筆を執り、父に書き送っている。絶対国防圏が風前の灯となり、徴兵適齢の引き下げで父も学徒動員されることとなった頃である。

 「此の手紙も入隊后御披見のことと存じます。心身共に全く立派に出来上がったあなたに対し、父からは何も申し上げることのないのを此の上なき幸と悦んで居ます。」

 どこまでも簡潔な短文の行間から、離れて暮らした四年間で成人した姿を見せることもないまま戦死するかもしれない我が子に対する、祖父の言い尽くせぬ思いが滲む。

 やがてトルコは日本に宣戦布告し、中立国ではなくなる。祖父母も他の館員共々軟禁下に置かれた。青木盛久大使のご尊父、青木盛夫氏も一緒におられたらしく、極限状況の挙句、戦後口さがない向きに悪意の揣摩憶測を書き立てられた。残念なことである。

 父はその後入営、旅順で軍事訓練の後、東京郊外に配属されて沖縄への艦砲射撃を無線傍受で聞かされ、しかるのち呉に配置換えとなった。父が原爆を目の当たりにした八月六日は、ポツダム宣言発出、そして祖父が絶筆を残した七月二十六日から数えて十一日目。終戦の詔勅渙発まであと九日であった。

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