海洋法から見た南シナ海問題

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堀口松城 日本大学客員教授

はじめに

 中国が「九段線」によって主権ないし主権的権利を主張する海域は、南シナ海の約80%に相当するとされ、漁業などの影響を受ける周辺国や、海洋の自由および海洋における法の支配を主張するわが国などとの間で紛争となっている。中国の主張に対し、フィリピンは国連海洋法条約(以下、「海洋法条約」)に従い仲裁裁判所にその無効宣言を求めて提訴したが、中国は本問題について仲裁裁判所は管轄権を持たず、裁判に参加しないとの立場を通告した。しかし、2015年10月仲裁裁判所はフィリピンの申し立ての一部については管轄権を認め、その他の申し立てについては本案と合わせて管轄権の有無を検討する旨の判断を公表した。以下、本問題の背景と仲裁裁判所の判断の内容および今後の見通しについて述べてみたい。

1.本問題の背景、とくに中国の主張について

(1)南シナ海ではフィリピン、ベトナム、マレーシアが周辺海域における岩礁の占拠で先行していたが、中国はベトナムとの数次にわたる軍事的衝突を経て、1970年代にはパラセル(西沙)諸島、1980年代にはスプラトリー(南沙)諸島海域の岩礁を支配し、1990年代にはフィリピン周辺海域のミスチーフ礁を占拠して南シナ海の島嶼への支配を強めた。その過程で、南シナ海の島嶼に対する領有権および海洋境界画定をめぐる紛争が中国および周辺国との間で生じているが、この紛争の背景にあるのが中国による南シナ海における「九段線」の主張である。

  この南シナ海における「九段線」の起源は、1930年代に南シナ海における中国の島嶼名の一覧として中華民国が作成した地図にあり、その後1947年に「九段線」が掲載された初めての南シナ海の地図が中華民国の公式な地図として刊行され、1949年に成立した中華人民共和国作成の地図にそのまま踏襲された。ただ、この「九段線」は南シナ海の殆どの島嶼を包摂しているが、その範囲内の領土に限った主張なのか海域をも含むものであるかを含め、中国政府はその具体的内容についてこれまで公式な説明を行っていない。

  一方、海洋法条約は条約の一体性を確保するため、条約の解釈、適用について義務的な紛争解決手続きを定め、一定の適用除外の場合を除いて司法的解決を用意している。今回のフィリピンの提訴はこの規定に基づくものであるが、他方、中国は2006年の海洋法条約批准時に、拘束力を有する決定を伴う義務的調停手続きの適用からの選択的除外として、島に対する主権その他の権利に係る未解決の紛争、境界画定に係る紛争、軍事的活動に関する紛争は、調停に付さないとの適用除外宣言を行っている。 (2)2009年5月マレーシアとベトナム両政府が、海洋法条約の定めに従い南シナ海における両国の200カイリ以遠の大陸棚延長に関する共同申請を大陸棚限界委員会に提出した。これに対し、中国は2009年5月国連事務総長あて口上書において、大陸棚限界委員会手続規則に基づき同申請を取り上げないよう求めた。中国はその理由として、両国の共同申請が「中国の南シナ海における主権、主権的権利および管轄権を深刻に侵害するものである」としつつ、「中国は南シナ海および隣接海域における諸島に対し争う余地のない主権を有しており、関連海域およびその海底とその下部について主権的権利および管轄権を有している」と主張し、「九段線」を描いた地図を添付した。

 中国がここで言及している「関連海域」の範囲や添付した地図の法的意味など不明なままであったが、フィリピンなど一部の周辺諸国は、中国の主張が島を起点とする海域に限定されない限り海洋法条約と整合しないとして異議申し立てを行った。中国はこれに対し2011年4月フィリピン宛ての口上書において、中国政府は1930年代から中国の南沙諸島の地理的範囲およびその構成要素の名前を何度か公にしており、中国の南沙諸島は明確に定義されているとしつつ、海洋法条約の関連規定、中国の領海および接続水域に関する法律(1992年)や中国の排他的経済水域(EEZ)、および大陸棚に関する法律(1998年)によって、中国の南沙諸島は領海、排他的経済水域および大陸棚を完全に有することができると反論した。中国はその主張が歴史的権利に基づくとしつつも、ここでも「九段線」への具体的言及はないままであった。

2.海洋法条約から見た中国の主張、とくに「歴史的権利」の主張の問題点

(1)中国は1992年に領海法を制定し、その領土として中国大陸ならびにその沿海の島嶼、台湾および釣魚島(尖閣諸島)を含む付属の各島、澎湖、東沙、西沙、中沙、南沙各諸島および中国に属するその他すべての島嶼が含まれると規定した。そして、この領海法を受けて1996年には領海基線に関する宣言を行ったが、この宣言では中国本土沿岸の直線基線と西沙(パラセル)諸島の周囲の直線基線のみを設定した。次いで2012年には尖閣諸島の基線を設定したものの、南沙諸島など南シナ海の他の海域の基線は未だ公表されていない。西沙諸島については中国のほかベトナム、台湾の間で帰属が争われているが、中国の宣言した西沙諸島を取り囲む直線基線は、海洋法条約上、直線基線は海岸線が著しく曲折しているかまたは至近距離に一連の島がある場所に設定できるとの規定に照らし問題がある。

  さらに、南シナ海で中国が占拠している対象のうち低潮高地について、海洋法条約では基本的に領海は持てず、これを埋め立てた人工島は500メートルの安全水域を持てるにとどまるが、ただ、これら複数の低潮高地が高潮時に水中に没するか否か事実関係が明らかでないものがある。

(2)中国が「九段線」は海洋法条約成立以前に既に存在していたとする歴史的権利の主張について、海洋法条約には湾に適用する場合および沿岸に適用する場合についての規定はあるが、その定義や制度に関する規定はない。しかも、歴史的権利はこれまで湾と沿岸についてのみ存在し,EEZや公海、大陸棚に適用された例はない。

 さらに一般国際法上、歴史的権利の存在を証明する義務はその主張国にあり、3要件、すなわち(イ)その国家が当該水域に対し、公開、周知、実効的な権限を行使し、(ロ)その権限を継続的に行使し、(ハ)同権限の行使が外国から黙認されていることを立証する必要があるが、「九段線」について中国はこのいずれの条件も満たしていない。

3.仲裁裁判所の判断

(1)2013年1月フィリピンは海洋法条約に基づく仲裁手続きを開始し、同年6月にはガーナ(裁判長)、仏、ポーランド、蘭、独の5名の仲裁人からなる仲裁裁判所(以下、「裁判所」)が設置された。

  フィリピンは2014年3月に裁判所に申述書を提出し、(イ)中国の「九段線」に基づく主張は海洋法条約に違反し無効である、(ロ)南シナ海のいくつかの地形はEEGおよび大陸棚を有しない岩である、(ハ)中国は南シナ海におけるフィリピンの権利侵害をやめるべきである、との3点を宣言するよう求めた。このフィリピンの提訴は海洋法条約の解釈と適用に関する裁判所の判断を求めることに絞られ、中国側が宣言した海洋法条約の強制的仲裁の適用除外事項に触れぬよう主権の問題及び境界画定問題には言及を避けている。

  これに対し、中国は同年12月自国の「ポジション・ペーパー」を対外発表し、中国は仲裁裁判所の管轄権を受け入れない、また、仲裁手続きに参加しないとしつつ、(イ)フィリピンの一方的な仲裁手続き開始は、事前の意見交換を必要とする海洋法条約違反である、(ロ)フィリピンの申し立ての本質は領土主権に関する問題であり、同条約の適用の問題を超えている、(ハ)本紛争の実態は境界画定問題であるが、中国は同問題が紛争解決手続きの適用除外である旨宣言済みであるとする3点を述べた。

(2)2015年10月29日仲裁裁判所は本件に関し、上記のフィリピンおよび中国の主張について以下の判断を示した。先ず予備的事項として以下を指摘した。

(イ)海洋法条約の紛争解決に関する規定は同条約の不可分の一体であり、一定の例外を認めてはいるが、同条約の紛争解決制度からの全般的な適用除外は認めていない。

(ロ)中国は本仲裁裁判に参加していないが、裁判所は、一方の当事者の欠席によって手続きの進行を妨げないとする同条約の関連規定に基づき、本件に関する管轄権を有する。

(ハ)中国は、2002年に採択された中国・ASEANの「行動宣言」によって、南シナ海における紛争解決はもっぱら交渉によるべき旨合意があったと主張しているが、同合意は政治的合意であって法的拘束力は有しておらず、海洋法条約とは無関係である。また、中国がフィリピンの一方的提訴は本条約の紛争解決規定の乱用としている点について、一方的訴訟の開始自体は条約の乱用ではない。また、海洋法条約の解釈と適用に関する紛争の有無について、裁判所はかかる紛争の有無を判断するうえで中国の立場のあいまいさに触れざるを得ず、また、海洋法条約と歴史的権利の関係の問題も同条約の解釈に関する紛争そのものである。

  さらに、フィリピンが提訴に当たって、海洋法条約が求める紛争解決の方法に関する当事者間の事前の意見交換義務を果たしたか否かについて、一方の当事者が交渉の可能性を尽くしたとの結論を下したときには、それ以上の努力を求められないことは一般国際法上十分確立している。

(3)そのうえで裁判所は、フィリピンの15の申し立てに関する管轄権の有無について以下3つのカテゴリーに分けてその判断を明らかにした。

(イ)管轄権ありとした7つの申し立ては、(a)スカボロー礁がEEZ、大陸棚を有するか、(b)~(c)ミスチーフ礁など5つの礁は低潮高地であるか、(d)ジョンソン礁など3つの礁はEEZ、大陸棚を有するか、(e)~(g)中国はスカボロー礁などにおいて海洋法条約の義務に違反していないか、に関するものであった。

(ロ)次に、裁判所が管轄権の有無を本案段階で検討するとした7つの申し立ては、(a)南シナ海における中国の海洋の権限は、海洋法条約で認められたものを超えることはできないか、(b)「九段線」、「歴史的権利」の主張は海洋法条約に違反し法的効果を持たないか、(c)ミスチーフ礁など2つの礁はフィリピンのEEZ、大陸棚の一部か、(d)中国は、フィリピンのEEZ、大陸棚における権利を侵害したか、(e)~(f)中国のミスチーフ礁の占領と建設活動は海洋法条約に違反するか、(g)本件仲裁手続き開始以来、中国のセカンド・トーマス礁周辺海域の行動は紛争を悪化させたか、についてであった。

(ハ)さらに、管轄権の有無を本案段階で検討するとしつつ、フィリピンに対しその内容を明確にするよう求めた残り1つの申し立ては、中国はさらなる違法な主張および行動を控えなければならないか、とするものであった。

 本仲裁裁判所は上記判断を踏まえ、2016年中ごろにフィリピンによる提訴に関する残された管轄権の有無および本案に関する判断を下すものと予想されている。

4.今後の見通し

 海洋法条約は、条約の解釈、適用をめぐる国家実行の集積を通じて実質的に画定されるという力学性を持つ部分が少なくなく、海洋法秩序の展開には沿岸国の海域に対する管轄権の拡大あるいは領有化を目的とする「忍び寄る管轄」が大きな役割を果たしており、その点で海洋における一国による利益の獲得、侵害を拒否し、制裁する力(軍事力)が重要な要素となる。

 「九段線」に関し、中国は同海域における島々に対し争う余地のない主権を有するとし、いくつかの礁を埋め立て滑走路を築くなど既成事実をつみ重ねているが、依然として具体的内容は明らかにしておらず、その間、米国の懸念表明を受けて「南シナ海における航行および上空飛行の自由を保障する国際法上の義務は果たす」旨の声明を出しており、具体的内容をさらに検討している可能性も考えられる。

 一方、習近平主席は先般の第70回国連総会演説において、「中国は国連憲章の最初の調印国であり、国連憲章に掲げられた主旨と原則を核心とした国際秩序と国際体系を引き続き守っていく」と述べていることからも、わが国としては米国などと緊密に協議しつつ、できるだけ多くの関係国とともに、中国に対し10年の交渉の末にようやく採択され発効した海洋法条約を核心とする海洋秩序を守ることが、責任ある大国としての中国の真の評価につながる点をねばり強く働きかけていくことが肝要と思われる。