第5回「梅と桜」

元駐タイ大使 恩田 宗

 「梅見酒びんも小ぶりとなりにけり」脳梗塞で倒れリハビリ生活数年の後亡くなった友人の句である。明るくて成績が良くスポーツも上手な好漢だった。酒類は制限されていたらしい。日の当たる縁側に座り一人で梅見をしたのではないだろか。幕末の英国公使館員アーネスト・サトウは蒲田の梅屋敷を見物し「(人々はここで食べたり飲んだりするが)梅の花は曇った日にくすんだ色の杉並木を背景として暖かい炉辺にすわりながら窓越しに眺める」方が良いと清少納言のようなコメントをしている。確かに梅は桜ほど華やかではないので鑑賞するには静かで落ち着いた環境がふさわしい。

 梅見は奈良時代からあった風習だという。大宰府の長官大伴旅人が催した観梅の宴の際の彼と招客の和歌32首が万葉集(巻第5)に載っている。その4分の1は梅の枝を挿頭(かざし)にして遊ぶことを詠った歌で梅の花は人を陽気にさせたらしい。梅は大陸渡来の花として上層階級の間では土着の桜より人気があり万葉集には桜の歌40首余りに対し梅の歌は110首を超えるという。

 それが逆転するのは平安時代になってからである。「・・・しず心なく花のちるらむ」「花の色はうつりにけりな・・・」のように花といえば桜を指すようになる。古今集では桜の歌は梅の歌の3倍近くになるらしい。

 桜の花は献上品にもなった。一条天皇(中宮彰子)の宮廷に奈良から八重桜が献上された時のこと、受け渡し役を急遽することとなった新米女官の伊勢大輔が桜を捧げると「歌よめ」と命じられという。彼女はその場で「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほいぬるかな」と詠み「万人感嘆、宮中鼓動」せしめた。彼女は70をこえる長生きして多くの秀歌を残しているが人に知られるのはこのはたち前のデビュー作1首によってである。人生には色々の形がある。

 新古今集になると春の歌のほとんどは桜の歌で桜と梅の比率は5対1である。桜の歌の多くは落花の歌で歌人は散りゆく桜の風情に歌心を誘われたらしい。

 今のような花見が庶民の間に年中行事として定着したのは江戸時代になってからだという。吉宗は向島や飛鳥山など江戸周辺の各地に桜を植えさせて民衆の行楽を勧めたという。 梅か桜かと言われれば桜である。桜は富士山と芸者に並び訪れた外国人に強い印象を与えこの3つが近代日本のシンボルになった。しかし満開の桜と嫋やかな美女の組み合わせは「南の温かくのどかな国=後進国」という欧米諸国の固定観念に結びつき進んだ工業製品の輸出には具合が良くなかった。昭和3~40年代のことである。対外広報では日本が北にある雪も降る先進工業国だとのイメージを広めたいとして満開の桜や大和なでしこを強調することは控えた。日本の技術に対する世界の信頼感は確立された。桜には日本のシンボルとして活躍して欲しいと思う。

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