オバマ大統領最後の一般教書演説の行間から読み取る〝オバマ・レガシー〟

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大島正太郎  
(霞関会顧問) 

さる1月12日、オバマ米国大統領は連邦議会上下両院議員を前に、8回目にして最後となる一般教書演説を行った 。

その評判については、米国国内での報道等を広く見たり聞いたりしていないので、自信を持って言えるわけではないが、必ずしも高い評価を得たとは言えないようだ。後日改めてホワイト・ハウスのホーム・ページで動画を見ながら演説を聞いてみたが、時折の拍手も「しばし、鳴りやまず」には遠いものであった。どうも、演説についての一般的な評価は、大統領としての指導力について昨今良く聞かれる批判と軌を一にするようである。

世の評判はそれとして、この演説を読んだとき、これはオバマ大統領がアメリカについての信念を強く訴え、自分の大統領としての「レガシー」をどの様に考えているか語ったものであると確信した。そして、この「オバマ・レガシー」は深いところで日米関係のあり方にも関わると考えるので、強い感銘を覚えた。

そもそもこの演説の核心は通常の一般教書の様に国内経済社会あるいは対外関係についてのこれまでの成果と今後の課題を語ったところにあるのではなく、アメリカのよって立つ政治理念を語ったところにある。自分たちの将来を今まで以上に良いものにできるかどうかは国民が行う選択にかかっているとし、「この時代の変化を恐れ、国としては内向きになり、また国内では人々がお互いに対立し言い争うような道を選ぶか、あるいは、我々アメリカ人がどの様な国民であるか(“who we are, what we stand for”)に自信を以て将来に臨むか」と問題設定をしていることに彼の問題意識が集約されている。

別の言い方をすれば、彼が力を入れたのは、内外で注目された「米国は、如何にして、世界の警察官にはなることなく、自国の安全を守り、世界を指導するか」との自問に答えて対外関係を語った部分ではなく、『We the People』で始まる、「一番言いたいことを取り上げ」た最後の部分である。「我々の憲法はこの簡単な三つの言葉(WE, THE, PEOPLE)で書き出している。これらの言葉は、今や一部の人ではなく、すべての人々を意味すると理解されるに至っている(“…words we’ve come to recognize mean all the people, not just some;”。」と述べたところに彼の国民への問いかけの精髄が凝縮されている。

オバマ大統領の問題意識は、一般教書演説に先立つ12月9日に、米国憲法修正第13条発効150周年を記念して行った講演 にも表れており、一般教書はその講演と合わせ読むと彼の考えがより良く理解できる。12月の講演は、丁度共和党指名争いの中である候補がイスラム教徒の米国への入国を排除すべしと主張した直後に行われたので、大統領が暗にこの提案を批判したとして論評されたものである。

大統領は一般教書演説でも移民排斥提案について立場を明確にしている。即ち「人々を人種あるいは宗教によって(差別の)対象として狙いを定めるようないかなる政治も拒否すべきだ、政治家がイスラム教徒を誹謗することは、誤った態度である」、「(その様な行為は)アメリカと言う国のあり方を裏切るものである(“And it betrays who we are as a country.”)」。つまり、大統領は次期大統領選挙戦の中で、米国を最強にして最も繁栄していた「古き良きアメリカ」に戻そうと唱える急進的保守派の思想傾向に、人種差別的姿勢が見え隠れしていることに対し、その様な立場を明確に否定しているのである。

彼の理念については、先ほど引用した部分にある“We have come to recognize”との言い回しに反映されている。それは、「今や…と理解されている」と、時の流れを語っており、米国が今日までに辿った歴史を想起しているからである。

その歴史とは言うまでもなく、南北戦争を経て成立した憲法修正第13条、第14条、15条、さらに第二次大戦後の公民権運動の高まりによって実現した1964年公民権法、1965年投票権法、そして、2008年に、アフリカ系候補者が大統領に当選するまでに発展したアメリカ政治社会の変遷である。(筆者注。この歴史については、昨年4月の「論壇」に寄稿した、『1865年4月、もう一つの「敗戦」』をご参照。)

オバマ大統領が、150年にも及ぶ米国史を振り返っていることは、演説のこの部分でリンカーンとルーズベルト両大統領とキング牧師の名を挙げていることからも明らかであり、この3人を選んでいることに彼の米国史についての信念をうかがい知ることが出来る。彼は、自分の任期中に民主・共和両党間の相互不信が深まったことを遺憾であるとしたくだりで、「リンカーンやルーズベルトの様な才能が有る大統領であったならばこの分断の状態をうまく克服したであろう」として、最も偉大であるとの評価が固まっているこの2人に言及している。両大統領はそれぞれ米国が建国以来最も深刻な分断分裂の危機に当面していた時期に就任し、いずれもアメリカがよって立つ理念に対する信念と類まれなる政治指導力で、それぞれが当面した危機、前者は南北戦争、後者は大不況と世界戦争、を乗り切ったことで高く評価されている。このことは、オバマ大統領が、今日のアメリカの政治社会上の分断を、これまでの歴史の中でも最も深刻な分断にも匹敵する構造的な問題と見ているとも言える。

しかし、彼は冷静にして現実的な政治家らしく、アフリカ系米国人である自分が大統領であること自体にこれまでの歴史的成果が体現されていることを理解し、他方、自分が大統領であるが故に、さなきだに存在する国論の分断分裂が人種的対立を包含している米国人の深層心理を感じているに違いない。そして、最近の米国では差別的発言は公然とはしないというのが「政治的常識」であるにも拘らず、急進保守派の候補が敢えてこの『常識』を打ち破り、過激な発言を繰り返すことに留意しつつ、自分の演説においては国民に米国の理念・信条を改めて確認するに当たり、相手と同じ次元の感情論に陥ることを避け、「大統領らしい(presidential)」発言に留めていることが印象的である。また、急進保守派が米国を〝あるべき姿に戻す〟ことを主張し、これまでに達成された多様性の受け入れという政治的現実を否定しようとしているのに対し、大統領は苦難の歴史を経て獲得された現実を守るべきとする側に立っている。この立場からすれば、挑発に乗せられ徒に対立をあおることは得策ではないので、いわば戦略的抑制を行っているともいえるであろう。

大統領は演説で「(国民が政治参加を諦めると)金と権力がある人々が政治上の決定権を持ち、若い兵士を戦争に送り出しかねず、あるいは再び経済的危機をもたらし、あるいは、何世代にもわたるアメリカ人がその為に闘い、死んで漸く確保した平等権や投票権が再び奪われかねない」と述べ国民に政治への無関心を戒めている。(米国が世界の警察官となると言うことが、若い兵士を戦地に送り込むことであれば、一般国民が受け入れるところではない、と述べているとも言えよう。) そして、さらに自分が大統領職を離れても一市民として、「あなた方」と一緒に活動する(”when I no longer hold this office, I will be right there with you as a citizen”)としつつ、その際自分を導くのは「われわれ(アメリカ人)を、黒人、白人、アジア人あるいはラテン系とみる前に、あるいはゲイかゲイでないか、移民か生まれながらの市民か、民主党系か共和党系かでみるのではなく、共通の信条で結ばれたアメリカ人としてみる『声』に導かれる。まさに(公民権運動の指導者)マーチン・ルーサー・キング師が述べた『武力に頼らない真実と無条件の愛』に導かれる」と述べている。

オバマ大統領が政治活動の第一歩を踏み出したのはシカゴのサウスサイドでのコミュニティー活動であること、大統領退任後慣例になっている記念施設を彼が生まれ育ったホノルルではなく、サウスサイド・オブ・シカゴに設置することを既に決めていることを想起すれば、彼の視線の先にある「あなた方」アメリカ人がどのような理念を信奉する人達であるかは明らかであろう。

要するに、オバマ大統領の最後の一般教書演説のさわりの部分は、通常の一般教書とは大きく異なり、バラク・オバマと言う政治家が、自分が大統領になれたことは、リンカーン及びルーズベルト両大統領そしてキング牧師のレガシーの結果であり、米国の政治社会がアフリカ系アメリカ人を大統領に選ぶことが当然視されるまでになったことを示したものである。同時に、その歴史を後世に繋ぐべく、一方で急進保守派の主張が今日のアメリカのよって立つ理念に反することを指摘し、一般国民にアフリカ系大統領が実現していることこそアメリカのレガシーを体現しているのであり、この歴史と理念が継承されるようにすることが自分のレガシー、オバマ・レガシー、であるとの信念を語ったものと理解するべきであろう。

(あとがき) 
急進保守派の候補の中に日米安保条約を否定する発言を行う者が居ることは日本から見て懸念されることである。しかも、その様な思想傾向は、今日のイスラム教徒移民排斥論にとどまらず、1924年の移民法で日本人移民が排斥された時に米国議会の主流を占めていた思想傾向と一脈を通じているので、日米関係のあり方を考慮するに当たり無関心ではいられない。

そのような問題意識で、1920年代の日本人移民排斥が今日の米国内政上の議論に関連することを憲法解釈論議の観点から述べた「1920年代の排日移民措置の今日的意義」、(原題“Why the 1920s U.S. Ban on Japanese Immigrants Matters Today”)と題する卑見を昨年末米国the Huffington Post系インターネットメディアであるThe WorldPost上に掲載したので、ご参照いただければ幸甚である 。

(平成28年1月27日記)

Remarks of President Barack Obama – State of the Union Address As Delivered
https://www.whitehouse.gov/the-press-office/2016/01/12/remarks-president-barack-obama-%E2%80%93-prepared-delivery-state-union-address
“Remarks by the President at Commemoration of the 150th Anniversary of the 13th Amendment”

https://www.whitehouse.gov/the-press-office/2015/12/09/remarks-president-commemoration-150th-anniversary-13th-amendment
“Why the 1920s U.S. Ban on Japanese Immigrants Matters Today”

http://www.huffingtonpost.com/shotaro-oshima/1920s-us-ban-japanese_b_8858260.html