シリア内戦の終わりの始まり、「イスラム国」打倒へ

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国枝 昌樹 元シリア駐在大使

シリア内戦の潮目の変化

1枚の写真がシリア内戦の潮目を変えた。

 2015年9月3日、トルコの海岸の浜辺に打ち寄せるさざ波に洗われながら昼寝をしているような3歳の幼児の写真が世界を駆け巡った。前日、家族と一緒にトルコからギリシャの小島を目指して海に乗り出したが高波に襲われて溺死し、浜辺に打ち上げられたシリア人幼児の死体だった。母親と兄も溺死し、父親だけが助かった。極端な保守イスラム過激主義グループの「イスラム国」(IS)が奪取を目論んで攻撃を繰り返したトルコ国境に隣接するコバニの町を逃れてドイツを目指したシリアのクルド人家庭だった。

 余りにもいたましい写真に欧米諸国の世論が反応し、欧州連合(EU)では大量のシリア人難民を受け入れる方向に舵を切った。その結果は、2015年だけでドイツは109万人の難民申請を受け付けることになり、その半数がシリアからの難民とみられる。

 難民を救援したい。しかし、これほど大量の難民を吸収し続けることはできない。問題の所在は明らかだ。シリアの内戦をできる限り早期に解決すること。さもなければ、これからも難民は出続ける。その為に立場を異にする関係諸国であっても、現実を受け入れた解決策を作って、それをシリア政府と反政府武装組織に呑ませ、その上でISの打倒を目指す。

 そんな空気が生じて来たところに、9月30日ロシアがシリア政府側に立って軍事介入に乗り出した。それは怒涛の空爆といってよかった。それまで過去1年間余り米軍が主導する有志諸国軍がイラクとシリア領内のISを空爆してきていたが、ロシアの空爆はその4倍あるいはそれ以上の頻度の出撃数で爆弾の破壊力もすさまじいものだった。

紆余曲折を辿る国際協力の構築

 ロシアの行動は解決策を模索する欧米諸国の動きを加速させた。初めてイランが正式に招待され、17カ国3国際機関が参加して10月30日にウィーン会議が開催された。日本は呼ばれない。引き続き11月14日に2回目の会議が開催され、2回の会議の成果は12月18日国連安全保障理事会で承認された。

 その間の11月13日、IS関係者によるパリ同時多発テロが発生し130人が殺される事件が発生すると、フランス政府はロシアも加えてIS包囲網を作り、IS空爆の強化を目指した。そんなときの11月24日、トルコ軍機がトルコ領を侵犯したとしてロシアの戦闘爆撃機を撃墜する。トルコ側は撃墜前に侵犯警告を10回繰り返したが無視されたので撃墜したとして、その警告音声を公表したが、トルコ人管制官による早口の聞き取りにくい英語で、しかも雑音が激しい。それを騒音に包まれるジェット戦闘爆撃機のコックピットで、しかもロシ人が聞いてどこまで理解ができたのだろう。それは兎も角、それ以来両国の関係は非常に緊張し、効果的なIS包囲網の構築が危ぶまれた。しかし、別の見方をすれば、これまで兎角ISとの関係が取りざたされてきているトルコとしては今までのような微温的な対IS姿勢はもはや取り得なくなって、却ってISに対する包囲網が強まることが期待できよう。そもそも米国が主導するIS空爆がこれまで期待ほどの成果を上げられなかった大きな理由にトルコ政府によるインジェリック空港の使用不同意があった。トルコはNATO加盟国であり、米軍はトルコ国内の同空港を自由に使用できる筈で、同空港からIS支配地域までは30分からせいぜい1時間の飛行距離にある。従って、迅速で臨機応変の爆撃ができるのだが、トルコ政府は15年7月まで1年間同意しなかった。その為に米軍機は遥か彼方のサウジアラビアやカタールの空港あるいはペルシャ湾を遊弋する航空母艦から地上攻撃機を飛ばさざるを得ない。これでは運用機種が限られるほかに、爆弾を搭載した機体は1時間半から2時間飛行して初めて爆撃地点にたどり着き、基地に帰投するまでに各機は3回ないし6回の空中給油を必要としていた。パイロットたちは過重な負担を強いられていた。そして、爆撃実施までの時間がかかりすぎてその間に標的が姿を消してしまうことが少なくない。やっとトルコ政府の同意が得られた結果、米空軍は強力な地上爆撃機を運用することができることになり、迅速な対応が可能になった。

 年が明けた正月2日、また火種が燃え上がった。15年に死刑囚153人を斬首したサウジアラビア政府は、死刑判決を受けていた騒擾関係者47名の処刑に踏み切った。その中に著名なシーア派サウジアラビア人の導師が含まれたので、イラン政府は猛烈に反発した。国民も反応してテヘランのサウジアラビア大使館を襲撃した。するとサウジアラビア政府は直ちにイランとの断交を発表し、他の湾岸諸国もほぼ同調した。イラン側ではロウハニ大統領が事態の鎮静化に動いているが、1年前に就任したサルマン国王のサウジアラビア政府は強硬姿勢を強めるばかりだ。米国が早速動き、ロシアも仲裁に乗り出す構えを示し、フランスや国連も事態の正常化に向けて呼びかけた。サウジアラビアとイランの対立が、ようやっと動きそうに見えるシリア内戦停止への取り組みとIS掃討に向けた国際社会の努力を無にしないように超大国とその周辺諸国が懸命に外交努力を進めている。それはちょうど競争相手同士の組織の親分衆が共通の目標を掲げて手打ちをしているときに、有力な子分衆同士で突っ張って衝突し、慌てた親分衆が右往左往する構図に重なる。

シリア国内の新しい動き

このような国際社会の動きがある一方で、シリア国内の情勢には一つの動きが明確になってきている。

 去年夏ごろまではシリア政府軍が戦闘現場で受け身に立たされじりじりと後退を重ねて来て秋になると政府軍と反政府武装組織との間で膠着状態が見られた。その後ロシアの軍事介入で政府軍側が反転攻勢に出て北部と南部でやや優位を回復してきた。そんな中で、政府側と反政府武装組織側との間で地域限定的な停戦合意が実施されてきたのだ。14年2月にはダマスカス近郊のバビーラ地区に立て籠もっていた反体制派武装グループと周辺を封鎖して兵糧攻めをしてきていた政府軍との間で停戦合意ができて反政府派戦闘員は恩赦を受け、同地区は平静さを取り戻して住民が戻り始めた。この他の地区でもいくつか同様の動きがあり、いくつかの成功例が続いた。15年秋になるとその動きが大規模化した。レバノンとの国境に近く、首都ダマスカスから50キロのザバダーニ市全体を占拠していた反体制派武装グループは次第に政府軍とレバノンのシーア派民兵組織であるヒズボッラの合同軍に追い詰められていたが、15年9月に両者間で停戦と反体制派戦闘員の安全な退去、さらにイドリブ州で反体制派武装組織から攻勢を受けて苦しんでいたシーア派住民が住む2カ村からの住民の安全な退去について合意ができて、その合意はその後発生したロシアの軍事介入にもかかわらず着実に実施されてきている。さらに、12月になるとホムス市のワエル地区で長らく立て籠もっていた反政府武装グル―プと兵糧攻めを行って来ていた政府軍側との間で合意が成立し、戦闘員とその家族たちは反体制派武装グループが今も占拠する他地域に小銃などを保持したまま政府側提供の車両で退去した。実は前年の14年5月に反体制派戦闘員とその家族たちはグループの一つの本拠地だった同市の旧市街を政府軍側との戦闘休止期間中に合意に基づいて退去し、旧市街を明け渡していたので、これで反体制派によって革命運動揺籃の地と呼びなわされたホムス市から反体制派武装組織はすべて去った。

 そんな中で、数多い反政府武装グループでも規模が大きく、アサド政権の中枢部であり、大統領の弟マーヘル・アサド少将とその軍隊が死守するダマスカスを継続的に脅かして来た中心的な存在である「イスラム軍」の創設者であるザハラン・アルーシュ司令官が12月25日に政府軍爆撃機の空襲により殺された。

 アルーシュ司令官の父はサウジアラビアでイスラム教ワッハーブ派の導師としてつとに知られ、アルーシュ司令官自身ダマスカス大学でイスラム法を学んだ後サウジアラビアのメディーナ・イスラム大学で修士号を取得して、サウジアラビアと強い関係を維持していた。09年以来シリアのサイドナーヤ刑務所に収容されていたが、民衆蜂起が起きた後の11年6月22日に他の被収容者たちとともに大統領恩赦により釈放されると直ちに反政府武装グループを組織し、13年にはそれがイスラム軍に発展した。同日に釈放された被収容者たちの中にはその後同じようにいくつもの反政府武装グループの創設に携わったものが多い。

 イスラム軍はダマスカス東部のドゥーマ市を本拠にして豊富な資金力を持ち、戦闘員は1万7千人を数えた。アルーシュ司令官はアサド大統領が属するイスラム教アラウィ派(シーア派に属するといわれる)を敵視し、民主主義制度を否定し、イスラム法の支配の実現を公言した。この姿勢は反政府武装グループであるアルカーイダ系ヌスラ戦線と近いとの指摘があり、保守復古主義的イスラム主義者とみなされていた。15年半ばからは発言ぶりを軟化させていたが、その頃は戦況が有利に展開しておりアサド政権打倒の見通しが出てきたので国際社会に受け入れられ易い妥協的姿勢を示したものと理解された。

 同司令官の死後直ちにブワイダニ副司令官が昇格した。だが、新司令官がアルーシュ前司令官ほどのカリスマ性を発揮してイスラム軍を統率できるのか、またサウジアラビアと従前の関係を維持できるのか、但しイスラム軍構成員の大半がシリア人といわれる中、過度にサウジアラビアに傾斜することは非常に微妙で、この点をうまく管理できるかなど今のところすべて未知数である。

 イスラム軍の在り方はダマスカス周辺の軍事情勢に影響を与えるだけではなく、IS打倒を目指して先ずシリア内戦の終結を実現させようとする国際社会の今後の取り組みに大きな影響を与える。 (2016年1月9日記)