ミャンマーの民主化実験


熊田 徹
(元在ミャンマー大使館参事官)

1.ミャンマーにおける民主主義と選挙

 J.S.ファーニヴァルは1957年に、「(多数の民族が隣り合ってはいるが、まとまりなくバラバラに暮している)複合社会国家であるビルマ(ミャンマー)では、民主主義すなわち多数決原理に基づく政治制度は幻想に過ぎないのだが、ビルマ人は例外的に不利な条件下でその実験を行っている」と指摘した。それから60年、昨年11月に行われた「民主的選挙」で圧勝したスーチー女史のNLD(国民民主義連盟)が総議席の6割を占める新議会が今月初めに開会し、半軍事的なUSDP(連邦連帯発展党)から政権を受け継ぐ準備が始まったことは、この民主主義の実験がついに成功寸前の段階に到達したことを意味しよう。だが一方、同国独立以来の山岳地帯少数民族反乱組織と中央政府との間の武力対決構造、及びそれを反映した軍人優越で「危機管理」中心の現行憲法という、民主化実験過程における二つの最大障害が依然立ちはだかっている。

本年1月12日から16日までの5日間にわたり、700名以上の関係諸民族組織や政党代表などを集めて首都ネピドーで開催された、「連邦和平会議(Union Peace Conference=UPC)」は、この課題解決努力の一環で、昨年10月の「全国的停戦合意(NCA)」に基づいて今後の和平プロセスの枠組みを検討するためのものである。興味深いことに、大小20を超える武装反乱組織中主要8組織しか参加しなかったNCAそのものに反対し、別途独自の和平集会を企図していたスーチー女史は、直前になって突然UPC開会式への参加を決めた。

1月18日付の現地紙報道によれば、UPCは下記4点に合意して閉幕した。
(!)政治対話を今後3ないし4年間以内に完結させる。
(2)次回会合は可能の限り速やかに開催する。
(3)会合出席者の30%を女性とするようにつとめる。
(4)昨年のNCA参加者名とその名誉を記録に残す。

これら合意事項は、昨年のUPCが議題としていた治安・反乱組織問題や山岳地帯自然資源の帰属関係などの具体的問題点に触れていないが、要するに上記の「民主化への二つの障害」の解決にはあと数年を要するということであろう。

この点に関して留意したいのは、スーチー女史が昨年総選挙の3日前にあたる11月5日、100名以上の内外記者を自宅に招いた記者会見で、NLDが勝利した場合には自分が大統領以上の政治指導者となるとともに、国民和解を目指すとし、国民多数の支持さえあれば「このバカゲタ憲法の改正などマイナーな問題」だとの趣旨を述べていたことである。 国民和解は秩序維持の根幹にかかわる実質的問題だが、ファーニヴァルの言うように、多数決では解決しえない。ところが、同女史・NLDは昨年9月から11月までの2ヶ月にわたる今回選挙戦では、小選挙区制選挙だったこともあり、このような難しい政策課題についてはなんら触れなかった。選挙戦直前になって発表した選挙公約ではその冒頭でこれら問題の解決を掲げていたが、候補者が公約の内容に触れることを禁じたうえで憲法改正などの「変化」を強調し、候補者名さえ忘れて「党への投票」のみを促す作戦を採用していた。民主的選挙にはまだ不慣れで、貧困や不正からの脱出のための変革を最大関心事としていたミャンマー民衆に対して、先進民主主義諸国で時々用いられるスピン・ドクター的戦術のごときものだったとさえいえる。

このギャップをどう埋めるかが、今後の政治日程上最大の課題であろう。NLD幹部は選挙で大勝の直後、1年以内での憲法改正とかスーチー女史の代理としての大統領候補の選定問題などに言及していた。その一方、「国民和解」の必要のみならず、自らの政策形成・実施についての経験不足と国民の期待に応える責任能力についての不安もあって、与野党連携の動きを強めている。以下、このような「ミャンマー民主主義の実験」の過程を振り返りつつ、今後の展望についても触れてみたい。

2.「複合社会構造」とアウサンの国家建設計画の挫折

 前記UPCは、この種会議としては、殆どのミャンマー人が知っている、1947年2月に独立準備として開催されたパンロン会議に比肩されよう。周知のとおり、アウンサンが主導した英国植民地からのビルマ族を中心とする独立戦争においては、ビルマ族からの独立約束により英国側兵力として動員された山岳地帯少数民族の多くとビルマ族とが敵対関係に置かれた。だから、第二次大戦終了後ビルマ族とこれら少数民族とは和解を必要とし、そのために開催されたのがパンロン会議だった。その産物であるパンロン合意は、同年9月採択のミャンマー独立憲法における少数民族問題処理の基本原理となった。スーチー女史はこれまでの民主化運動において「第2のパンロン会議」開催を何度も呼びかけ、選挙公約でも「パンロン精神を基盤とする政治対話」を強調していた。だが、パンロン会議もパンロン合意も、したがってミャンマー国家初の憲法も決定的な欠陥を抱えていた。 

第一に、当時仏教徒とムスリムの双方を含め、分離独立ないしは自主権を求める激しい反中央運動を展開していた、現ラカイン州が参加しておらず、カレン州を代表していたのは同州少数派代表のみだった。第二に、何らかの手違いが原因らしいが、同憲法規定上シャン、カチン両州の連邦離脱権が留保されていた。第三に、憲法附則において、英国が植民地行政上許していたシャン、カチン両州でのケシ栽培とアヘンの製造販売が、財政自主権の一部として容認されていた。冷戦期の外部介入はこの麻薬産業を軍資金源として利用し、ミャンマーは世界一の麻薬生産国となった。1964年、時のネウィン政権が非合法化したが奏功せず、両州は今日に至るまで、麻薬生産を続けており、ごく最近の国連統計によれば、ミャンマーは麻薬生産量でアフガニスタンに次いで世界第2位の由である。第四に、第二次大戦中の「ビルマ独立軍」と反ビルマ族少数民族ゲリラとの間の兵力再編成作業が未着手のまま放置され、それが独立直後の「内戦」につながった。

注意すべきは、植民地以来の麻薬生産に加え、長らく中国からの武器支援を受けているシャン州ワ族のUWSA(ワ州連合軍)、同じく麻薬やラワン材その他の密輸などを通じて中国の影響下にあるKIA(カチン独立軍)、かつての反中央抵抗運動の流れを受け継ぐAA(アラカン軍。自治権を要求するアラカン仏教徒組織でカチン族の政治機構KIOと連携している由)など、相当数の武装反乱組織が依然ミャンマー国軍と武装対立関係にあって兵火を交えており、上記のとおりNCA にも今回のUPCにも参加していないことである。さらにシャン州北端で中国との国境をまたいで居住し、ワ族同様麻薬その他の密輸に依存しているコーカン族の軍事組織とミャンマー国軍との間で昨年2月に激しい砲撃戦が発生してテインセイン大統領が非常事態宣言を発令し、中国との外交案件化寸前に至ったこともある。

ここで想起すべきは、ミャンマー国民が建国の父と仰ぐアウンサンが描いていたミャンマー国家建設計画がどんなものだったか、である。彼は、日本亡命中の1941年初頭に記した「ビルマ独立の青写真」では、「(植民地統治者の策謀により平野部と切り離された辺境山岳地の)後進的民族の民度を引き上げ、諸民族間の接触と交流を妨げている自然障害を、道路・鉄道・通信等の建設によって克服する必要」を強調した。制憲議会を前にした1947年5月の演説では、当時のミャンマー行政も経済運営の主体も白僑や印僑、華僑によって占められていた状況にもかんがみ、そのビルマ化を期した。また、「古い民主主義」ではなく「新しい民主主義」、そして緩い連邦制(federation)ではなくミャンマーの国情に合う「我々の民主主義」としての、諸民族が強固に統一された「ユニタリーな連邦制国家(union)」の建設を目指した。 だが彼は、憲法採択の2か月前に、パンロン合意の欠陥調整に着手できぬまま、暗殺されてしまった。

もう一点忘れてならないのは、民族間対立も麻薬産業も、ミャンマー人の自発的意思に基づいたものではなく外生的な要因に由来しており、それが長い間ミャンマー内政の混乱を招いてきたことである。第二次大戦がもたらした民族間対立構造が冷戦期には東西両陣営からの介入工作に利用され、ミャンマー政府軍が世界最多の20数にものぼる武装反乱組織群を相手とする激しい内戦が続く一方、議会政治の混乱を招いた。国軍司令官ネウィンは1962年の無血革命と1974年の憲法改正とによる強権的な一党独裁制確立を通じて、ヴェトナム戦争などの冷戦に巻き込まれる危険からの防衛を図った。だが冷戦終了後も、国境周辺秘境地の不法経済と軍事化した内政状況ゆえの人権問題や民主化の停滞が続き、このため国際的な制裁介入が科された。こうしてアウンサンの悲願は日の目を見ることなく今日に至っている。

3.ミャンマーの内外政治と憲法改正問題

以上のごときミャンマー政治経済混乱の過程でさらにもう一つ注意すべき現象がある。介入側とビルマ族そのもの双方における内部分裂である。具体的にいえば、米国の対ミャンマー政策は、冷戦初期においてはネウィン政権をミャンマーで唯一秩序維持能力を有し、かつ信頼し得る実力組織とみなす国務省とこれを容共的とみなすCIAとの間での対立があった。冷戦後期以降は同政権を通じて麻薬撲滅対策に取り組む国務省政務局とネウィン政権を人権・民主化運動抑圧者とみなす同省人権局との間で、米国議会をも巻き込む熾烈な政策対立があった。

他方ミャンマー国内では、BCP(ビルマ共産党)が、冷戦中期にネウィンからの要請に応じた中国共産党からの軍事的・財政支的支援を打ち切られたために、麻薬生産者たるワ族を支配下において代替資金源としていた。このBCPは冷戦末期の1987~88年には、米国の前記政策対立につけ込んで反ネウィン闘争のための少数民族反乱組織の統合とNLDの乗っ取りを図った。  

時あたかも、冷戦終了を見通したネウィンが1987年8月10日の政府・党全幹部向け演説で、経済と政治の体制改革のための憲法改正意思を表明して程なくの頃合いであった。BCPはこの目的のために、母親の病気見舞いのため帰国中のスーチー女史を利用する策を立て、その政治指南役として、独立運動中アウンサンの盟友であった老党員をスーチー宅に住み込ませてイデオロギー的誘導を図る一方、NLD中央委員会に多数のBCP党員を潜り込ませた。こうして、ミャンマーの国家体制変革意思が二分され、ポスト冷戦期のミャンマー政治は米国内の政策対立と呼応するがごときネジレ現象に陥った。

1988年7月、ネウィンは突然のように開いた臨時党大会で、憲法改正とそのための国民投票実施とを提案するとともに、公職からの辞任を表明して政治の表舞台から身を引いた。だがその後、NLD主導により、軍事政権下での国民投票にも憲法改正にも反対するとの、全国的デモが発生した。そして、9月にこれを武力で鎮圧した国軍とNLDとの間で、少数民族や国際社会をも巻き込んだ四半世紀に及ぶ対決構造が出来上がった。

2008年に現行憲法が採択されたのは、いわゆる「サフラン革命」のさなか、国連安保理で対ミャンマー制裁介入が議論され、ASEANの主要会合でも、それまでのミャンマー政権に対する同情的態度の見直しが検討されるという、ミャンマー国軍にとっては危機的な状況下においてであった。念のため付言すると、一昨年の米国スティムソン・センター資料によれば、2000年代初期には、ミャンマー問題解決のため米国ミャンマー間、米中間である程度の融和・協調的努力がなされていた。

 今回選挙戦では殆ど取り上げられなかったが、ミャンマーの現状で重要なのは少数民族反乱組織との関係、特にNCAに参加しておらず「不法組織」とされている前記12の武装反乱グループへの対策である。ミャンマー民営紙「イラワディ」によれば、これら12の武装反乱組織が前記ワ州連軍(UWSA)の招聘に応じて開催された昨年11月初めの3日間にわたる会合後の声明文は、次期政権との和平交渉を呼びかけ、そのなかで中国と中国軍を仲介役として参加することを提案した。

同紙によれば、中国は兵力2万を有するUWSAに対し従来から大量の武器供給を行いつつ、そのミャンマー当局との和平交渉を妨げてきた。一方、カチン独立軍(KIA)に対してはその支配下にある20万エーカーの土地をコーカン族反乱組織用にリース方申し入れた経緯がある由だ(交渉は未成立)。昨年2月にコーカン族反乱軍とミャンマー国軍との戦闘が外交問題化しかけたことはすでに触れた。かつてビルマ共産党(BCP)は、ワ族やコーカン族とそのアヘン産業を支配して反中央政権闘争の資金源としていたが、両族は1989年3月、おそらくは中国の介入によって、反乱を起こしてBCPを崩壊させ、当時の軍事政権の危機を救った経緯がある。 前記会議には、NCAに参加したカレン族組織KNU(カレン民族同盟)の次席指導者で女性人権活動家でもある人物が出席している。彼女は、NCA署名に反対したカレン民族防衛組織(KNDO)をも代表している由だが、スーチー女史はかつてKNUに対しNCA署名を差し控えるよう申し入れ、また、NCA署名式も欠席した。 

こうした背景を、中国がミャンマーに有している諸権益や対外拡張主義的な政策傾向を踏まえたうえで考慮すると、スーチー女史の少数民族対策には十分に留意すべき危険な要素が絡んでいるように思えてならない。

4.共有された「四つの目標」と今後の展望

2011年9月、D. ミッチェル米国政府特別代表兼政策調整官(現駐ミャンマー大使)がネピドーを訪問し、発足して間もないテインセイン現政権や議会の主要幹部、スーチー女史を含む政党関係者等と幅広く接触のうえで行った「きわめて親密で建設的な会談」を機に、米国は「軍人第一主議の危機管理憲法」下でのミャンマーの民主化改革支援に向けて政策転換を行った。

同政策調整官はこの政策変更を、「懐疑派の誤り」とか「パラメーターの変更」との言葉で説明しつつ、米国もミャンマーも主要関係者のすべてが、人権、民主主義、開発、そして和解という「四つの目標」を共有していることを強調した。「懐疑派の誤り」とは、それまでの米国内部での政策対立への反省、「パラメーターの変更」とは本稿上記で縷々触れた、ミャンマー側と米国側とにおける歴史認識の差や政策対決の原因となった諸要素の再評価を意味しよう。こうして、米国政策当局は2008年の現行ミャンマー憲法と2011年選挙の結果とを容認のうえ、「半軍事的性格」のテインセイン政権による政治経済改革を後押しすることとなり、国際社会も同調して今日に至った。

つまり、米国側の現時点での認識においては、ミャンマーの現行憲法改正よりも現行憲法体制下での「四つの目標」の追求こそが優先するのである。そして、かつてスーチー女史もこの優先順序の重要性の認識を共有していたはずなのである。このような観点からであろうが、米軍はすでにミャンマー国軍との交流を行っており、英国もサンドハーストでの両国軍将校たちの交流研修事業を実施し、さらについ先週、英国軍トップもネピドーを親善訪問した。

テインセイン政権は昨年3月、各省に事務次官(パーマネントセクレタリー)のポストを創設して、行政実務組織の政権変更からの独立性とその安定化を図った。また、各省に政策実施の実績や懸案事項および諸資産などの帳簿作成を命じ、さらにNLD とともにそれぞれの政務引き継ぎ委員会を作って共同の勉強会を開いたりし、政権移行に備えている。 

だが、最大のハードルは、女史自身を含め殆どのNLD 党員の理想と善意とを実行に移すべき政策立案の経験と実務能力の空白であろう。現政権は一程度の改革実績を残しはしたが、前記UPCのみならず、国営企業やヒスイ鉱山等、カチン・シャン両州の自然資源開発関連事業をめぐる腐敗構造と国境を越えた利権抗争などの弱点を克服し得ていない。ましてや、山岳地帯住民のヤミ経済を代替すべき合法的経済基盤の開発整備は停滞したままである(1989年のクーデターで「暫定政権」を担ったSLORC=国家法秩序回復評議会=は特別の委員会を設置したうえで、山岳地帯での道路・橋梁等の事業に着手したが、国際制裁ゆえに進捗しなかった)。もし、国軍の強力な秩序維持能力とテインセイン現大統領らの行政実務能力の活用、そしてNLDの圧倒的議会勢力による法制的統御の下での国際社会からの開発援助というような組み合わせが可能となるならば、アウンサンの悲願であった山岳地帯の「文明的開発」がより迅速かつ確実に進展するように思えてならない。

 

「四つの目標」の実現にはいくつかの選択肢があろうが、最良の方法は、2011年頃のテインセイン大統領とスーチー女史との良好関係を回復したうえで、与野党連携体制を少なくとも1~2年間、必要ならば2~3年間続けてUPCを成功に導くこと、そしてその間にスーチー女史はじめNLD 党員が一種のインターンシップにより政策実務を実地に学ぶことであろう。このような方法で憲法第59条d項が定める大統領の資格要件(連邦の行政、政治、経済、軍事に関する事項に通じていること)を確保してから政権を移譲するような工夫を凝らすことは、憲法改正や無理な憲法規定いじりを急ぐよりは合理的で、国民の利益にも適うのではなかろうか。

 

2月初めに新議会が発足し、議長・副議長等いくつかの人事が固まるのに並行して次期大統領選出の問題が注目を浴びており、様々な情報が飛び交っている。ある報道では、「スーチー大統領」実現を急ぐNLD議員達が、その障害となっている憲法第59条f項を一時凍結する法案の提出を計画しているが、スーチー女史自身は、現大統領の任期は3月末までだからまだ時間があるとして記者達の質問には取合っていない由である。他方、ここ数か月間の同女史の言動を追ってみると、一般常識を超える大胆な発想に固執する反面、状況に応じて柔軟な対応に転じてもいる。女史は選挙後、党員達に「歴史と憲法とを学ぶ」ことを指示していた。それは多忙を極める選挙戦を終えた女史が、亡父アウンサンの歩みを改めて顧みた結果なのかもしれない、というのが筆者の印象である。

ミャンマーの長い民主化実験の歩みの中での最も重要な岐路に立っている女史が、その選択を誤まることはあり得ない、と筆者は信じている。      (2016年2月4日記)