ラグビーワールドカップ2015を終えて
(駐英大使)
9月18日に開幕したラグビーワールドカップ・イングランド大会は、10月31日の決勝戦でニュージーランドが豪州に快勝し、連覇と3回目の優勝といういずれも史上初の快挙を成し遂げ、11月1日の表彰式において、イングランドから2019大会の開催国である我が国への引継ぎがなされて閉幕した。
世界最大のスポーツ行事であるサッカーのワールドカップは、歴史も古く(第1回は1930年開催)、ご存じの方も多いだろうが、ラグビーの方は、英国、アイルランド、豪州、ニュージーランド、南アに在勤した人くらいしか関心がなかったかもしれない。筆者自身は、たまたま出身高校(大阪府立天王寺高校)が、旧制中学時代以来、二度全国優勝していることなどから、ラグビーが「校技」とされていた。全校クラス対抗で試合をしたり、在学中に花園に出場したラグビー部を応援に行ったりしたため、関心がない訳ではなかった。それでもワールドカップと言えばサッカーだろうと思ってきた。しかし、駐アイルランド大使時代に、2011年大会の開催国に日本が立候補していたため、その選挙運動のお世話に関わることとなり、重要性を再認識した経緯がある(世界ラグビーの本部はダブリンにある)。確かに、ラグビーワールドカップの歴史は新しく、第1回大会開催は1987年であった。しかし、その後人気はうなぎ上りで、すぐに、観客動員数やテレビ視聴者数では、サッカーワールドカップ、オリンピックに次ぐ、世界第三の国際スポーツ行事となった。日本は、アジアで初の大会開催によってラグビーの地平を拡大するという謳い文句で最初の選挙を戦ったが、僅かな票差でニュージーランドに敗れた。しかし、その次の選挙において、今年の大会と2019年大会を抱き合わせで決定することになり、イングランドと組んで見事に雪辱を果たした。しかも、その後2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催が決まったこと、観光立国の政府方針とも合致することから、さらに大きな意義のある行事と位置づけられることとなった。関係者の間では、直近のイングランド大会は、初開催の日本としてもその運営ぶりを学ぶ場でもあり、また、次期開催国として、日本代表がどれだけ活躍できるかは、大会の成否を分けることにもつながるという意味で、大きな関心があった(日本は、これまで、1991年大会でジンバブエに勝って以来、一勝も挙げておらず、ラグビーの社会では、雑魚minnowsという評価であった。エディー・ジョーンズ監督が目標を聞かれて予選リーグで2位以内となって準々決勝に進出することと表明した時、信じた人はほとんどいなかったようだ)。
結果は、多くの人が知るとおりだ。今回のワールドカップは記録ずくめだった。観客数も過去最高の約248万人、チケットの売上げは約2億ポンドに上った。地元イングランドは、残念ながら予選リーグで敗退したが、スコットランド、ウェールズ、アイルランドは、準々決勝まで駒を進め、大会全体としては大いに盛り上がったことから、過去最高の大会だったという評価がもっぱらだ。会場案内などで6千人ものボランティアが活躍したことも特筆される。
しかし、今回の大会を盛り上げることに貢献した主役の一人に躍り出たのは、日本代表だった。特に、鍵となったのは、イングランド南部ブライトン市で行われた初戦の対南ア戦だ。南アは、モーガン・フリーマンがマンデラ大統領を演じ、ラグビーを通じて民族融和を図るという映画「Invictus」(クリント・イーストウッド監督)でも有名な1995年大会を含め、二度世界王者になったラグビー大国だ。1点を争うサッカーと異なり、ラグビーに番狂わせはないと言われる。日本は、その南アと互角の試合を行い、試合終了間際に、それだけでも勲章になる引き分けのチャンスを捨てて果敢に勝利を目指した。そして、一つミスをすればタイムアップで敗戦という緊張の中、劇的な逆転トライを挙げて勝利を収めた。日本人応援団による「ニッポン、ニッポン」という声援が、次第に「ジャパン、ジャパン」という地元の人たちの声援に圧倒されるようになっていたが、最後は、スタジアムが、pandemoniumと報じられる熱狂に包まれた。日本代表のあだ名の「勇敢な桜花たち(Brave Blossoms)」に相応しい勝利だった。報道も「Unbelievable」といった見出しが躍った。筆者は、会場から「Veni, vidi, vici! 夢ではない、日本が南アに勝った。歴史が作られた」といういささか興奮気味のツイッターを発出したが、これがロンドン・タイムズ紙に日本大使のツイートとして、引用されるほどだった。この日本・南ア戦での劇的、歴史的勝利は、11月1日の表彰式において「ワールドカップ最高の瞬間」に選出されたが、優勝したニュージーランド代表チームを含む1,500人の出席者は、誰もが惜しみない拍手を送り、満場の賛意が示された。
次の対スコットランド戦は、先方は初戦、こちらは中3日という苛酷な条件もあって苦杯をなめたが、休養を取った後の対サモア戦では、日本として史上初めてラグビーワールドカップでの複数勝利を飾った。この試合の日本におけるテレビ視聴者は2,500万人。ラグビーワールドカップ史上、一国における最高視聴者数で、日本のマーケットの大きさが再認識されることになった。そして最終の対米国戦ではついに予選リーグで3勝目をあげ、南ア、スコットランドと勝敗成績では並んだ。しかしながら、トライ数などで与えられるボーナスポイントのわずかな差で、予選敗退となり、予選で3勝をあげながら準々決勝に進出できなかった史上初のチームとなった。この大会を通して、比較的小柄な日本代表の勇気と規律ある戦いぶりに、多くの賞賛・激励の声が上がった。大使館にも手紙やメール、電話が多数寄せられたし、街中を歩いていて、日本人かと声をかけられて、「素晴らしかった」と握手を求められたという在留邦人もたくさんいたようだ。英国で高い人気を誇るラグビーを通して、数えきれないほど多数の英国人に日本への敬意と親近感を持ってもらえたようだ。
素晴らしい大会だった。もちろん、これは終わりではない。2019年に向けての始まりなのだ。4年後、日本がアジアで初めてのラグビーワールドカップを開催する。北は札幌、釜石から、南は福岡、熊本まで12都市が、世界中から熱狂的ラグビーファンを日本流の「おもてなし」で迎えて、熱狂的日本ファンにする絶好の機会となる。イングランド大会は6週間にわたったが、この間、森元総理、御手洗2019組織委員会会長、岡村日本ラグビー協会会長、遠藤オリンピック・パラリンピック担当大臣に加え、開催予定地から知事や市長を始め、多数の関係者が来訪し、一試合平均5万人の観客動員という大会の迫力を肌で感じることになった。代表チームのキャンプ・宿舎の対応、要人接遇、セキュリティ、輸送計画、ファン・ゾーンの設置、ボランティア動員、広報等々、大会運営の様々な側面に直に触れて4年後に活かすことが期待される。今回の大会中、日本は、後半3週間にわたり、ロンドン中心部ウェストミンスターに、「ジャパン・パビリオン」を設置し、日本大会と日本の宣伝を行った。日本代表の大活躍も手伝って、会場は賑わいを見せたようだ。
今大会を語る時に、イラクで殉職した奥克彦大使を語らずにはおれない。奥大使は、伊丹高校、早大を通じてラグビー部で活躍した根っからのラガーマンで、外務省入省後、英国研修中には、オクスフォード大学ラグビー部の代表(いわゆるblue)にも選ばれた。2003年、在英国大使館広報文化センター所長だった彼がイラクで凶弾に倒れた後、彼の友人を中心とする有志が「奥大使記念杯ラグビー大会」を年に一度当地で開催している。今年は、イングランドでのワールドカップの機会を捉えて「大学ワールドカップ」が初開催され、その初戦として、奥大使の出身校同士、オクスフォード大学対早稲田大学戦という好カードが、奥大使記念杯として実現した。
森元総理によれば、日本がワールドカップ開催を最初に提起したのは2003年で、その時、ロンドンで奥大使がお世話したそうだ。奥大使は、その実現に強い情熱を持っていた。彼が存命だったら、どこに在勤していようが、イングランド大会には飛んで来て、南ア戦の興奮を一緒に味わえたのではないかと思う。そして、2019年大会成功のためのビジョンを熱く語ったことだろう。彼の殉職はその意味でも痛恨の極みだ。しかし、だからこそ、2019年日本大会は、日本代表が更なる大活躍をして、大成功の大会にしていかねばならないと思う。