第2回「17条の憲法の解釈」

元駐タイ大使 恩田 宗


 集団的自衛権の問題で憲法をどう解釈するかが議論になっている。
 日本で憲法という言葉が最初に使われたのは聖徳太子の17条の憲法であるが今の憲法とは成立の背景も性格も違う。形成されつつあった官人層に服務の心得を訓示し併せて守られるべき一般道徳を説いたものである。日本人の性格や心情をよく見極めての教えでその殆どが時代を超えて今に通じる。保元の乱で敗れた藤原頼長は天下を取った暁には17条の憲法の精神で政治を行うと神に誓ったという。安部総理も「以和為貴」と色紙に書いて書道展に出品し「議論しながら最後には皆でまとまって進んでいくこと」だと説明したと報じられた。
 「以和為貴」は日本書紀の伝える17条の憲法の第1条冒頭の文である。太子の時代それを日本語でどう読んでいたかは分らないらしい。記録に残る最も古い訓みは平安中期のもので第1条の和は「ヤワラグ」「ヤワラカナル」となっている。穏和・柔軟であることが大切だということになる。第13条と15条にも和という字がでてくるがこれは「アマナヒ(フ)」と振り仮名されていて一致するとか協調するという意味になる。和には読み方と意味が二つあったということになる。ところが室町時代になり関白一条兼良が第1条の和も「アマナヒ」とそれ迄とは違う訓点をして後世の解釈に影響を与えた。今は殆どの日本人が1条の和を「ワ」と音読し安倍総理と同じに合意し団結することを勧めているのだと理解している。
 日本書紀に詳しい石塚晴道北海道大学名誉教授によると兼良は超一流の学者であり典拠に基づき長年熟考の末解釈を変更したと思われるがその生きた時代にも影響されたのではないかという。15世紀の日本は下剋上の風潮が吹き荒れ既成秩序が崩壊しつつあった。武力抗争や土一揆が全国で頻発し応仁の乱では兼良邸を含め京都がほぼ全焼している。西軍の主将山名宗全が有職故実を論じ先例々々と言い立てる兼良らしき学者に対し全て「その時が例」であり時勢によって変わるべきだと言い返したという話が残っている。そういう時代だった。
 聖徳太子も時代の波に洗われてきた。日本書紀では聖人扱いで次第に神格化され親鸞は久世観音の化身だとして礼拝した。江戸時代の儒者や国学者からは太子の仏教受容振興策が日本を悪くしたと非難された。明治の小学校の最初の歴史教科書はこんな逸話を載せているという。子供仲間といたずらをしていた時父の欽明天皇が笞を持って現れたが太子一人は罰を受けて当然だとして逃げなかった、と。昭和のナショナリストからは隋に対し対等の外交を実行した人として尊崇されたが敗戦で占領軍に紙幣の上からパージされかけた。近年は太子存在が日本書紀の創作に過ぎないと論じる学者もいるらしい。日本が世界に誇り得る17条の憲法の作者とされている方である。これからも生き続けて頂きたいと思う。

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