河内(ハノイ)のことは夢のまた夢~ベトナム本出版余話~

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元駐ベトナム大使 坂場 三男

 私は、このほど、かつての勤務地ベトナムについて1冊の本を上梓した。単行本の出版は初めての経験である。私は、履歴書の「趣味」の欄に恥ずかし気もなく「読書」と書くほどの本の虫であるが、近所の書店の店頭に並ぶ自著を眺めるといささか妙な気分である。果たしてこんな本が売れるのか、書いた本人が疑わざるを得ないほどの駄作。一応、「ベトナム論」あるいは「ベトナム人論」風の体裁をとっているが、在勤時代のもろもろの思いをダラダラと書き連ねただけなので、学術的意義はもちろん、専門書としての価値もない。改めて立派な回顧録や外交論を著作として書き残された諸先輩の偉大さを思わざるを得ない。

 昨年9月末に外務省を退官して、突然何もすることがなくなった私は、最後の勤務地となったベルギーについて諸々の思い出を書き物に残しておきたいという思いに駆られた。ベルギーについては久米邦武編「特命全権大使米欧回覧実記」の中に岩倉使節団がこの国を訪問した詳細な記録が残されており、かの司馬遼太郎も「オランダ紀行」の中でリエージュやアントワープといったベルギーの地方都市を訪ねた旅を絶妙な文章で著述している。勿論、私にはこれらの大作に比肩するような観察力も文章力もないが、当時のベルギーと私が生活して実感した現代のベルギーとの間には明らかに大きな差異があり、この「違和感」がモチベーションとなって「現代ベルギー論」を書き始めたのである。徒々なるままにあれやこれやと書いているうちに思わぬ長文になり、一冊の書物に出来るだけの分量に積み上がったので知り合いの編集者に出版の可能性を打診してみた。ところが彼の反応は冷ややかで、「いまどきベルギーでは売れません」とのつれない返事。私個人の思い入れを離れて考えてみれば彼の言い分はもっともで、小国ベルギーに関心を向ける読者が大勢いるとは思われない。ただ、この編集者は意外な助け舟を出してくれた。「ベトナム本なら売れるかも知れません」と言う。確かに、日々のニュースを見ても南シナ海の領有権をめぐる問題や、あるいは「チャイナ+ワン」の企業ビジネスの新たな展開先としてベトナムが言及されることは少なくない。そこで、いずれハノイでの在勤経験を別途纏めてみたいと思っていた矢先でもあったので、こちらの執筆に取り掛かることにした。これが昨年の暮れ近い頃だった。

 実は、ベトナムについては、在勤時代やその後に各所で行った講演の記録がいくつも残されており、ベトナム各地を訪問した際の印象記も在勤時代に大使館ホームページに「大使のよもやま話」という短文コラムを連載していたので原稿執筆の材料に困ることはなかった。ただ、何分、5~6年前のベトナムの話ばかりなので、今、新たに「現在のベトナム」のことを書こうとすると最新情報の不足に悩まされることになった。そこで、あちこちから過去数年のベトナムに関する情報を集め始めたが、一番役に立ったのは「VIETJO」というベトナム専門のインターネット情報誌だった。ベトナムの政治、経済、社会のあらゆるニュースについて毎日朝夕2回配信しているのでこれを遡っていくことで「空白期間」の動静を埋めることが出来た。これらを材料に執筆すること約1ヵ月、400字詰め原稿用紙に換算すると400枚分ほどの長さの「ベトナム論」が完成した。早速、くだんの編集者にこれを持ち込むと、「これなら行けます」との嬉しい返事。しかし、本当の悪戦苦闘はこの時から始まった。個々の内容の追加・修正から全体の構成のあり方までありとあらゆる注文が下りてきたのである。私なりに言いたいこと、書きたいことはあるので、編集者の考えとすれ違うことが一再ならずあったのは事実。その都度率直に話し合い、徐々に私の思いを理解いただくようにした。ただ、各章の順序や見出しなどについてはさすがにプロの編集者だけあっていかにも読者の関心を惹くような立て方になったのは幸いだった。最終的に合意しあった各章の順序と見出しは次のようなものになった。

序章:悩めるベトナム、悩まないベトナム人
第1章:世界一親日的なベトナム人
第2章:ベトナム人について知っておきたい6つのこと
第3章:ベトナムという国について知っておきたい5つのこと
第4章:不思議の国、ベトナム
第5章:ベトナムの最新地域事情
第6章:ベトナムの未來、ASEANの中で生きる
終章:深化する「日越戦略的パートナーシップ」

 これに、「はじめに」と「あとがき」を加え、写真を選定して完成である。

 ところが、最後の段階になって、このベトナム本のタイトルをどうするかで思わぬ意見の相違に逢着した。私が付けたかったタイトルは本稿の見出しにした「河内(ハノイ)のことは夢のまた夢」である。ハノイ市はもともと漢字で「河内」と書く。そこでこの「河内」の字の上に「ハノイ」とルビをふることで本書がベトナム本であることを示せばよいと考えた。この表題は豊臣秀吉の辞世の句の末尾、「浪花のことは夢のまた夢」をもじったものだが、事実、私のかつての在勤地ベトナムに対する望郷の思いを見事に言い表すもので、個人的には大変気に入っていた。しかし、この私の思いは出版社の編集会議で一蹴された。こんなタイトルでは誰も読む気にならないというのである。彼らが強く示唆して来たものは「世界一の親日国・ベトナムの素顔」だった。どうも、昨今の日本の風潮として「親日」とか「嫌韓」、あるいは「反中」のような国民感情むき出しのタイトルが歓迎されているというのである。これには私の方に少なからず抵抗があった。あまり感情的なタイトルにはしたくなかったし、第一、ベトナムが親日国ではあるとしても「世界一」かどうかは客観的に証明のしようがない。いろいろと議論しているうちに、私個人が「世界一」だと勝手に思い込んでいるというのならギリギリ受け入れ可能という妥協が成立して「大使が見た世界一親日な国・ベトナムの素顔」に落ち着いた。出版社にとって本は売れなければ商売にならないのであって、著者の個人的な思いを斟酌するにも限界があるということであろう。私はしぶしぶこれを受け入れた。

 私は、今回の自著出版の過程で多くのことを学んだ。本の内容はもちろん、見出しの付け方から写真・図画の選定、果ては装丁のあり方まで検討・吟味しなければならないことは山ほどある。ゲラを読み返していて、誤字脱字の訂正はもとより、内容的にも改めた方が良いと気付くところが多々あって、ギリギリまで加筆修正をさせていただいた。その意味では編集者に随分と迷惑をかけた。どのような内容の本を出版し、如何に販売促進を図るかについても出版社によって違いは大きい。たまたま私が編集者を知り、出版の相談をした会社は岩波書店や中央公論のような堅い専門書を出版する会社ではなく、いわば「市井の人々」を想定読者とする「やわらか系」の出版社である。結果として、私の著したベトナム本は専門書でもなければ学術書でもなく、ベトナム旅行をしてこの国に関心を持ったという人やベトナムとビジネスをしている企業人に更にもう一歩踏み込んでベトナムを理解してもらうための「ベトナム紹介本」なので、自著の出版社としては良い選択だったように思う。諸先輩からは「元大使である以上はもう少し真面目に書け」とお叱りを受けそうであるが、一人でも多くの方々に読んでもらい、ベトナムについて理解を深めてもらうには、こうした内容の方が目的に叶っていると考えた結果であり、お許しを賜るしかない。

 今年、2015年はサイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結してから40周年に当たる。パリ和平協定が調印された1973年は私が外務省に入った年である。そして、来年の2016年は南北ベトナムが統一されてから40年目。ベトナム戦争末期に学生時代を過ごした私はまさに「ベトナム戦争世代」であり、この国には特別の思いがある。今、私が、己が非才を顧みず、「現在のベトナム」の姿を多くの方々に紹介したいと願うのは、こうした若き日のトラウマがあるためかも知れない。(了)