外交は武道である』 2015-9-28

日本学術会議事務局次長 千葉 明

 ブルース・リーが残した私の好きな言葉に、次のようなものがある。  
 
「武道・格闘技の修行を始める前は、パンチはただのパンチであり、キックはただのキックでしかなかった。  
 
武術の修行を始めると、それがただのパンチではなく、ただのキックでもないと感じ始めた。  
 
長い間修行を続け武道を理解した時、やはりパンチはただのパンチであり、キックはただのキックでしかなかった。」  
 
ブルース・リーは俳優であり、「東洋人男性は美しい。その魅力は外面、内面両方に及ぶ」という(当然の)パーセプションをあのハリウッドで確立した功労者だが、優れた武術研究家でもあった。この言葉に触れたとき中学生だった私は、なんだか意味は分からないがかっこいいこの言葉を胸に、合気道道場の門をたたいた。  
 
武術でなく武道という以上は、技術習得にとどまらない道(みち)の探究が必須だ。技術レベルでは、たとえば合気道であれば、相手の立ち位置を無理に変更させることなく、それを尊重しながら、同時に自分の軸を確固として保ち、相手の軸をずらしていくことで重心を崩し、制していくことが、基本の理合いである。その技術の体得の上に、日常の発想をこの理合いに近づけていくことが道の部分となる。  
 
ただただ訥々とこちらの立場を繰り返すのではなく、ウィット、恫喝、泣き落としを含め手練手管を繰り出して取るものを取る技術を競うのが外交官のメチエだということは、霞関会会員にとっては当たり前のことだろう。その際、独り勝ちの形を避け、相手もなにがしか取ったような言い分を使える余地を残しておくことが要諦であることは、諸先輩から繰り返し伝えられた教えだ。合気道の理合いでも、相手が自分から率先して畳に沈み込むよう導く点が、この「独り勝ちを避ける」点に似ている、と思ってきた。  
 
しかし、五年近い海外勤務を終え、各国の道場での稽古を経て再び日本の道場に出入りを始めると、冒頭のブルース・リーの言葉がどうにも思い出されてならなくなった。合気道の神髄と思い込んできたこの重要な理合いも、所詮は技術の一端に過ぎないのではないか、と。  
 
何しろアメリカ人もイラン人も、とにかく体密度が高い。同じ背丈の日本人より数段重く、相手の立ち位置を尊重していたら動かせるものではない。相手と接触する前に、既に相手の体勢を崩しておかないと、技がかからないのだ。  
 
外交とは何であろうか。諸先輩が一三〇年間にわたって積み重ねてきた交渉術の数々は、それ自体在職中に身に付けられるかどうか分からないほどだが、それでもやはりパンチでありキックなのではないか。武道が教えてくれる外交の要諦は、交渉が始まる前に、即ち普段から不断に、我が国の立場を優位化し、競うべき相手国の立場を劣位化しておき、交渉のスタートラインに立った時には既に相手国が崩れているという状態に持っていくことではないか。  
 
とすれば、従来は外交成果の宣伝といった付け足しの位置づけで捉えられがちだった広報こそが、実は外交の本体ではないか。優れた広報活動を弛まず継続しておけば、いざ交渉のテーブルに臨んだ時には、勝負は既についているのが外交というものなのではないか。  
 
まだよく分からない。道場通いは続く。