私のメキシコ再発見

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目賀田周一郎 
(前駐メキシコ大使)

 昨年11月、3年半のメキシコ勤務を終え帰国した。メキシコは日本にとって、最初に不平等ではない通商航海条約を締結した国、中南米で最初に組織的移民を受け入れた国、講和条約の早期発効や日本の国連加盟を支援してくれた国、農産品を含む実質的な経済連携協定(EPA)を初めて締結した国である等、日本外交の地平を開いてくれた国とされている。また、地震国という共通点もあり、災害時には助け合う伝統もあり、最近でも、東日本大震災では中南米では唯一緊急援助隊を派遣し、福島原発事故を理由とする輸入制限を早期に撤廃するなど、好意的な対応を示しており、我が方としても好意には好意をもって報いる姿勢が重要である。
 赴任に際しては、二国間関係はある程度成熟しており、差し迫った懸案は無いと聞いていたが、着任してみると、まだまだ様々な分野で二国間関係を更に進展させる余地があるのではないか、潜在的な可能性のある二国間関係に双方の政府、国民がもう少し関心を高めても良いのではないかとの印象を持った。
 メキシコにとっても、2012年12月大統領に就任したペニャ・ニエト大統領がエネルギー分野への民間開放等の改革に取り組むなど、歴史的な変革の時期に重なった。
 振り返ると、赴任前にはあまり認識していなかったこと、予想していなかったことが数多くあった。親日的な姿勢の背景にある様々な史実や、文化や自然の多様性といったことに関連するものが多いが、これらは、私にとってメキシコ再発見といえるものである。
 その中でもここでは特に以下の5つの点を紹介したい。
 

1.支倉常長使節団

 2013年及び2014年を「日墨交流年」とする旨両国首脳間で合意して頂き、様々な事業が実施された。これは、両年が、支倉常長使節団の日本出発、メキシコ到着のそれぞれ400周年に当たることを記念するのもであった。
 私も歴史の知識の中で支倉使節団の存在は知ってはいたが、そもそも支倉が何故メキシコ経由で、スペイン、ローマまで赴いたのか明確に認識していたわけではなかった。
 調べてみると、伊達政宗の支倉使節団派遣の目的は、仙台藩を日本の窓口としてアカプルコとの間に太平洋を越える貿易航路を樹立し、メキシコ経由で欧州との貿易ルートを樹立しようとしたものであった。当時の宗主国であり太平洋貿易をガレオン船により独占していたスペイン国王の了解を得るためマドリッドに赴き、そして、伊達領でカトリックを普及するための宣教師の派遣をローマ法王に請願し、引き換えに法王からメキシコとの直接貿易の実現への助力を仰ぐべくローマまで赴いたということである。
 日本とメキシコとの間では、2005年に経済連携協定が発効しており、また、現在TPPについても両国は交渉当事国となっている。メキシコの戦略的重要性は不変であり、両者間の経済関係を発展させるとの政宗の夢は400年を経て経済連携協定として花開き、後述の日本企業の投資ブームにより実を結ぼうとしているといった表現を私のスピーチで何度も繰り返した。 交流年の直前に大統領に就任し、日本との関係を更に強化したいと考えるペニャ・ニエト大統領にとっても格好の舞台を提供したといえる。2013年4月の大統領訪日、同月の岸田大臣の訪墨、5月の宮城県代表団の訪問、14年1月の千玄室大宗匠の来訪と記念の茶会、3月の上院における記念式典、7月の安倍総理訪墨、10月のセルバンテイーノ国際芸術祭への日本の招待国参加、秋篠宮同妃両殿下のご訪問、同月末の日墨大学長会議そして関係各州での日本週間、姉妹都市・県の知事や市長の訪問等様々な行事の場で支倉使節団の話は何度も繰り返され、日墨間の歴史に裏打ちされた特別な友好の絆についてメキシコの方々の理解も深まったのではないかと思う。
 改めて、伊達政宗の構想の大胆さに感銘を覚えるが、様々な資料を読むと、支倉使節団については、いろいろ疑問も生じてくる。政宗は、徳川幕府の了解を得て支倉を派遣した
 とされるが、伊達領でのカトリックの普及のための宣教師派遣の要請まで幕府が了承していたとは思いにくい。政宗がスペインと軍事同盟を結んでキリシタンの力を借りて幕府に対抗しようとしたのではないかとの見方や支倉は欧州の実情を調査する密命を帯びていたのではないか等、学者の間には、使節団の真意を巡って論争もある。また、使節団の何人かがメキシコに残留し、また、使節団との関係は判然としないが17世紀中期にメキシコでのビジネスに成功を収めた日本人の記録も別途残されている。
 いずれにせよ、同使節団は、400年後に日墨友好を深める重要な機会を提供したことは間違いない。このような成り行きに一番驚いているのは、当の伊達政宗や支倉常長自身であるかもしれない。

2.堀口大學とメキシコ

 詩人の堀口大學は、1909年から1913年まで在メキシコ代理公使を務めた外交官堀口九萬一の息子であり、父親に呼び寄せられて18か月間メキシコに滞在している。当時は、30年間の独裁を続けたポリフィリオ・デイアスに対し立ち上がったメキシコ革命が成功し、革命の英雄であるフランシスコ・マデロが大統領に就任した直後であった。しかしながら旧勢力の巻き返しがあり、1913年2月9日朝からメキシコ市は、反革命勢力の蜂起により騒乱状態になる。その日の午後、予てから堀口公使一家と懇意であったマデロ大統領の夫人、両親など30人余りが身の危険を感じて日本公使館(公邸も兼ねていた。)に庇護を求めて逃げ込んできた。堀口公使はこれを快く受け入れた。外務本省も、大統領一族が公使館で政治的活動をしないことを条件にそのまま保護して良いとの指示であった。15日になって、反乱軍が公使館を襲撃するとの噂が伝わり、その日の深夜大統領の両親等は自発的に公使館を退去し大統領官邸に戻ることにしたが、堀口公使は砲弾が飛び交う中、公使夫人と息子(大學)を付き添わせた。18日に至り、マデロ大統領は反乱軍側に拘禁され、反乱軍側に寝返ったウエルタ将軍が事態を掌握する。22日には、大統領自身が暗殺され、ウエルタ将軍が大統領に就任することになり、メキシコ革命は暫く頓挫することになる。堀口公使は、とりあえずウエルタ政権とも良好な関係を保つも、数か月後には帰朝する。
 これらの経緯は、九萬一自身が記した「メキシコ革命騒動体験記」、そして堀口大學が記した随筆集の中に「悲劇週間」というタイトルで克明に記録されている。この日本公使館がマデロ一族を保護した史実は、現地日系人協会の資料には美談として紹介されているが、日本国内、更にはメキシコ国内でもあまり知られていなかったのではないか。ただ、日本では、作家の矢作俊彦が同じ「悲劇週間」という題名で当時の堀口大學を主役に革命と恋愛をテーマとした長編小説を書いており、柏倉康夫の「評伝堀口九萬一・敗れし国の秋の果て」といった著作もある。九萬一は、その後ブラジル公使時代に、日露戦争に際しロシアを出し抜いてアルゼンチンから軍艦2隻を購入することに成功するなど、外交官として注目される活躍をした人物である。この2月には、メキシコ上院でマデロ一族の庇護について日本に対する感謝決議が採択されたとの報に接した。そして、7月に参議院議長の招待でバルボサ・メキシコ上院議長一行が訪日した際、同議長より、在京大使館に堀口九萬一と日本国民に感謝の意を表するプレートが寄贈された。100年を経て日墨友好を支える史実が改めて脚光を浴びたことは極めて喜ばしい。ちなみに、新任のアルマーダ・メキシコ大使夫人は、マデロ大統領の弟のお孫さんである。

3.日墨医業自由営業協定

 この協定は、1917年から1928年まで効力を有していた二国間条約で、医師、歯医者、薬剤師、産婆、獣医の5つの業種については、いずれか一方の国の免許を有している者は、他の一方の国においてその翻訳証明をもって自由に開業することができるという内容である。メキシコは、1897年、中南米で最初に日本人が組織的に移民を行った国であるが、1899年にはペルー、1908年にはブラジルへの移民が開始されている。日本政府は、日本人移民支援の観点から、この3か国に対し同様の内容の提案を行ったが、メキシコが応じたのに対し、ブラジルは断り、ペルーからは回答がなかったとの記録がある。当時、メキシコはメキシコ革命の余韻も冷めやらず、医者が不足していたのであろう。この協定により、多くの日本人医師等がメキシコに移住し開業することとなった。協定の効力は10年とされ、延長も可能であったが、10年たってみるとメキシコで開業した日本人医者、歯医者等は日本政府が把握したものだけで少なくとも65人に及ぶのに対し、日本で開業したメキシコ人医師等はゼロであった。メキシコ国内からこれは片務的な条約であるとの批判が出され、条約の廃棄通告が出されてしまった。廃棄の効力は、1年後に生ずるが、この間に日本外務省は、協定の下で一旦開業した医師等については、既得権としてその後も営業を認めてもらいたいとの交渉を行い、メキシコ側はこれを認めた。その結果として、今日に至るまで現地日系人には親を継いで医師や歯科医を職業としたものが多く、過去には医学学会の会長や保健大臣に就任した日系人医師も輩出した。現在でも、日本で研修経験があり、日本語堪能な日系人医師も多いので、在留邦人にとっては安心できる要素であるといえる。私自身、在勤中に急性虫垂炎にかかり、現地で緊急手術を受けたが、その際の内科の担当医は日本語堪能な日系人の方で、大変心強く感じたものである。
 昨年8月には、大使館の働きかけで日系人医師会医療セミナーを開催し、併せて、日本の医療機器や医薬品の展示会を開催しプロモーションの機会としても活用した。その端緒となった日墨医業自由営業協定については、寡聞にして着任するまで知らなかったが、如何に昨今のEPA/FTAブームとはいえ、今日ではまず実現困難な協定であろう。良好な健康管理の体制は投資環境の重要要素であり、この協定は100年近くを経過して日系人医師の存在という資産を残してくれたわけである。

4.自動車生産拠点としてのメキシコ

 2011年5月にペルーからメキシコに転勤の途次、本邦に立ち寄った際も特に日本からの企業進出が活発化するとの話は特に聞かなかった。ところが、6月に入り、マツダがメキシコに年産20万台の初の工場を建設するとの発表があり、その発表式で未だ信任状を提出する前であったが、当時のカルデロン大統領ともご挨拶する機会ともなった。その後、8月にはホンダが年産20万台のメキシコ2つ目の工場を建設するとの発表があった。更に、2012年1月には、日産がメキシコで3つ目の工場を設立するとの発表が行われ、これで、堰を切ったように自動車部品を中心とする企業の新規進出が続いた。
 この背景は、欧州金融危機による異常な円高、タイの洪水、日中関係の悪化、東日本大震災のサプライチェーンの断絶等により、グローバル企業はリスクの分散に経営戦略を切り替えたためと考えられる。どうして投資先がメキシコかといえば、政治的な安定、自由で開放的な経済政策、1億人の国内市場に加え世界最大の消費市場のアメリカに隣接し、特にNAFTAをはじめとする43か国とのFTA の存在といったメリットがあった。NAFTAの関係で米国市場向けの日産、フォルクスワーゲン、ビッグ3の工場が既に進出していたので、もともと自動車企業進出の素地はあった。ローカルコンテントの確保、また、コスト削減の観点からも部品企業が現地生産に踏み出すことは自然である。メキシコの人口構成の上で、国民の平均年齢が20代の後半であり、今後20年近く労働人口が増え続けること、賃金の上昇も顕著ではないこともプラス要因である。このような日本企業の自動車関係投資ブームは、さらに鋼板・プラステイック等の原材料・機械、流通、建設、金融等の分野にも波及が見られた。私の在勤中、日本から、毎年100社以上、3年間で300社以上の新規進出があり、既存の工場の生産力増強も含めメキシコ着任後少なくとも70億ドル以上の新規投資が発表され、メキシコの経済活性化、雇用機会の提供にも大きく貢献した。
 前述の3つの新しい工場はいずれもメキシコ中央部の中央高原地帯に立地しており、関連企業の進出も集中し、同地域では在留邦人の数も急増した。同地域に位置するレオン総領事館の新設が要請開始2年目にして実現の見込みとなったことも大変時宜を得たものとなった。 3年前には新規投資に慎重であったトヨタもこの4月にメキシコで初の乗用車工場の建設に踏みきり、自動車部品企業の進出ブームはもうしばらく続くであろう。 自動車製造拠点としてのメキシコを再発見した自動車関連企業の決断の背景には、長年の二国間の友好関係も考慮されたであろう。

5.自然と文化の多様性の宝庫

 メキシコには32件のUNESCO世界遺産がある。マヤ・アステカの古代遺跡群、スペイン植民地時代に建設された中世コロニアル都市、そして現代のメキシコ芸術を象徴する
 壁画などの種々の文化遺産、生物多様性に富む自然遺産などを含む。また、各地の先住の
 お祭りなど多様で楽しい。
 特に、11月1日に花を飾りお供えして夜を明かし先祖と対話する「死者の日」の行事、オアハカのゲラゲッツアの踊り、チアパス州チアパ・デ・コルソのチャパネコの祭り、サンルイス・ポトシのセマナ・サンタ(イースター)の行進など、いずれも色彩に富み個性豊かで素晴らしいものがある。
 自然の魅力もカンクーン等の美しいビーチやグランドキャニオンにも劣らないチワワ峡谷のような自然の景観に限られない。毎年カナダからはるばる到来する何十万羽のモナルカ 蝶が群舞する光景は壮観である。またトラスカラ州には、ホタルが群舞する場所もあり、生物多様性の魅力も大きい。メキシコ料理でも、タコスやモレに限られず、ウイトラコッチェ(トウモロコシに生えるキノコ)、エスカモーレ(蟻の卵)等、多様なのである。

6.将来への期待

このような魅力に富むメキシコの唯一の難点と言っても良いのが治安の問題であろう。麻薬組織が暗躍する米国国境沿い等の一部の特定の地域が特に危険である。一般犯罪も他の途上国並みに発生する。しかし、これらの問題については、危ない所に近寄らない、車にものを置かない、戸締りはしっかりする等、犯罪被害に巻き込まれるリスクを最小化することはできる。私の在任中は、幸いなことに邦人が被害者となる殺人事件や誘拐事件は起こらなかった。現在メキシコ政府が注力している諸改革に成功を収め、治安対策が徐々に成果を上げ、豊かな資源とオープンな経済政策により、政治、経済、文化・学術、地域間交流の様々な面でメキシコが日本にとって更に魅力あるパートナーであることを益々多くの方々が再発見されることを願って止まない。 (了)